秋の斜めに差しかかる太陽が、狼煙の上がる灰色の塔を明るく照らしていた。
山すその村は、真昼にかかわらず静まり返っている。
子供の泣き声も、立ち働く女の姿もない。
「全滅か…。」
竜騎士隊長カインは呟いた。
その傍らで、領主は茫然と立ちつくしていた。
打ち破られた家々の扉にはみな、無数の醜い爪跡がついていた。
屋根の茅は狂ったようにむしられ、天井に大きな穴が開けられている家もある。
それは、どれほど恐ろしい魔物たちの襲撃であったろう。
「なん…で。」
村に頻繁に近づくようになったモンスターの姿に、領主は都に守備兵を借りに来た。その矢先、旅人から村に狼煙が上がってい たと聞いた彼は、決死の思いで竜騎士団に救いを求めた。
村の狼煙は、大事が起こったらすぐに上げるようにと領主が後を任せた息子に言い置いてきたものだった。
竜騎士隊長カイン・ハイウインドはすぐに領主の願いを聞き入れ、その日のうちに仲間と共に村へ出発した。
竜騎士は火を吹く魔獣、飛竜を乗りこなす空の騎士である。
彼らは、飛竜を休ませるためにただ一度地上に降りただけで、一昼夜を飛び続けて非常信号を上げる村へ向かってくれた。
初めて飛竜の背に乗せられた領主は、山より高い空の飛行に目を回したが、村を思う気持ちが彼の意識を保たせた。 しかし…、それでも彼らの訪れは間に合わなかった。
「なんで…。」
領主は呟いた、それ以外に何も言葉が浮かばなかった。
騎士達は無残に破壊された家々を、床下から屋根裏まで村人の姿を捜した。
見つかったのは、わずかな骨片と床に広がった血溜りの跡だけだった。
魔物の中には貴金属を好むゴブリンもいたのだろう、財産を納めた櫃も爪でこじ開けられ、領主の館にも村にも銅貨の一枚さえ残っていなかった。
「お支払いする金貨もなくなってしまいました…、倉庫の作物は残っているようですから、それでお許しいただけるでしょうか …。」
茫然としたまま、領主は言った。
先祖伝来のすべての領民と妻子を失って、彼の頭はそんなことしか浮かばなかった。
嘆くことさえ、彼の心は忘れていた。
「都へ行きましょう、ご領主。」
カインは言った。
「作物を売れば、とりあえず貴方が暮らすぐらいのお金にはなる。この事を陛下にご報告して、村のことはそれから考えましょ う。」
領主は首を振った。
「私は、この領民達を弔ってやらなくてはなりません。」
領主は騎士がマントの上に拾い集めて来たどれが誰とも分からぬ骨片の山を抱えて言った。
「妻と、息子も…。」
初老の領主の目に涙が滲んだ。
「なんで、私の村がこんな目に…。私の家はもう三百年もこの辺りを治めてきた、こんな事は一度もなかった事です。私たちが 魔物に何をしたと言うんですか？ 私たちは魔物の住処を脅かす
ような事はしていない、誰だって近付きもしない、彼らが狂暴で恐ろしいのを知っているから、それなのに―――。」
獣の唸るように、領主は骨片を抱いて地面に泣き伏した。
魔物が人を襲うのは周知の事である、しかしそれは人間が彼らの領域に踏み込んでしまった場合であり、彼らの方から人間の領 域に踏み込んで来る事など、まして群れをなして襲ってくるよう
な事などは誰も想像だにしない事だった。
村にいては危険だと言う竜騎士達の説得にも、領主は村を離れようとはしなかった。
騎士達は都へと羽ばたく竜の背から、遠ざかる村を幾度も振り返った。
暮れていく村の塔の上に、領主はいつまでも立ちつくしていた。
∵ ∵ ∵
バロン平原は温暖で肥沃な土地であった、北からの乾いた厳しい風は広大な山岳地帯に阻まれ代わりに南からの風がバロンに慈 雨をもたらし、豊かな黒土の平原と森林を育んでいた。
恵まれた環境は強力な軍隊を作り、五百年の長い歴史を持つバロン王国は豊かさと強さを兼ね備えた王国だった。
軍事国家バロンの首府はバロン平原の北部、豊かな水量を持つ川のほとりにあった。
黒く重厚なバロン城、深い堀、厚い幾重もの城壁。
その石造りの都は、人々にとってこの広い世界の中のわずかな人間の領域、秩序ある守られた空間であった。
「陛下は、竜騎士部隊が陛下の許可無く出撃したことをお怒りです。」
竜騎士隊長カインの率いる一隊がバロンに戻ると、バロン王の側近である近衛兵長ベイガンが騎士団を訪れて言った。
「事は一刻を争ったのだ。近衛兵長。」
「出撃をお命じになるのは陛下です、カイン殿。竜騎士団はバロン王国の騎士団、つまりバロン王の騎士団です。今後、勝手な 行いは慎んでいただきます。」
「何故、おしかりを受けるのだ。隊長はモンスターに襲われた村を助けに行ったのだぞ！」
竜騎士副隊長ノトスが言った。
「私に言われるには筋違いです。ノトス殿、私は陛下のお言葉をお伝えしているまでですよ。」
ベイガンは迷惑げに眉をひそめて言った。
「困窮した人を救うのが我々騎士の務めではないか、貴殿が言われるのは、とても陛下のお言葉とは思えん！」
「ノトス――。」
カインは副隊長を制した。
「あとで陛下にはおわび申し上げる…。」
カインは言った。
「それがよろしいでしょう。今回は処分はなしとのご厚遇ですが、二度とこのようなことはなされませんように―――。」
そう言って、竜騎士達の忿懣やるかたない面持ちを尻目にベイガンは騎士団を出ていった。
モンスターとも呼ばれる魔物は夜と闇の生き物である、真夜中や深い森、暗い洞窟が彼らの住処であり、人はそこに近づきさえ しなければ害されることはないはずだった。
ところが今、都にはあちこちから魔物達の異変が伝えられていた。
白昼の平原でゴブリンが何匹も目撃され、街道では旅人が空に浮かぶ巨大な一つ目の怪物を見た。
森に入った狩人は鋭い牙で引き裂かれたまま食われてもいない鹿や猪の死体を見つけ、そしてくだんの領主は知らぬ事だったが、 ひと月前にも山中の小村の一つがモンスターの襲撃を受け全滅し
ていた。
しかし、近衛兵長ベイガンはこの異変を大事とは思っていないようだった。
「ノトス、俺が出ている間も陛下はおいでにならなかったか？」
「ええ。」
「ご病気とは聞かぬし、陛下はどうされたのだろうな。」
現バロン王は、自ら玉座を降り兵士に混じることを好む生粋の武人であった。
以前は三日と置かず騎士団を回り、兵にも騎士にも別け隔て無く声を掛け、彼らの声に耳を傾けた。
そのバロン王がふっつりと城を出なくなりもう数ヵ月が経つ、王国議会や公式の席に現れる王の姿は以前と変わらず国事に支障のあるわけではないが、王が玉座を立たぬ代わりに、王命を伝えに出向くようになった近衛兵があちこちではばをきかせはじめ、
騎士達の不興を買っていた。
「お疲れでしょう隊長。リンドブルムの世話は私がやりますから休んで下さい。」
「疲れてなどないよ。ノトス。」
カインは笑って、面倒見のよい年上の副隊長に言った。
カインは二十一才、世襲制の貴族である竜騎士達を率いる隊長としては異例の若さの就任である。
しかし彼の飛竜と心を通わす才能と、竜騎士の武器である長槍を操る腕前は他者の追従を許さぬものがあった。
カインの父、ハイウインドも竜騎士の隊長だった。
暗殺とも噂されたその急死の時、ひたすらに主の帰りを待ち続け飢死しようとする飛竜、リンドブルムの心を開かせ餌を与えて命を救ったのは、まだ竜に乗ったことさえなかった幼いカインだっ
た。
騎士になりたての二十歳であったノトスは、その時からカインに心酔していた。
「お帰りなさい、カイン。」
ぬけるようなバロンの青空に、澄んだ声が響いた。
長い飛行を終えた飛竜に丹念にブラシをかけていたカインは、その手を止めて振り返った。
長い金髪を軽く結い上げた少女は、庭のあちこちで飛竜の世話をしている騎士達と挨拶を交わしながら、軽い足取りでカインの 傍らに駆けて来た。
「急だったわね、怪我はない？」
「ああ。」
幼なじみのローザに、カインは穏やかに答えた。
「腕の傷は？」
「これは、リンドがじゃれたんだよ。」
二の腕に斜めについたぎざぎざの引っ掻き傷は、飛竜が尖った突起のある頭をカインに擦り付けたあとだった。
カインの腕にローザは静かに両掌をかざした。
小さく呪文を呟くと、傷が消え滲んでいた赤い血が乾いて落ちた。
「早くなったな。」
「まだ、これじゃ何の役にも立たないわ。どんな怪我でも治せるようにならなければ、みんなを助けられないもの。今のところ は、弓を引いて魔物を倒したほうが役に立ちそうだわ。」
ローザの弓術はバロン王国の武術大会で例年優勝を飾っていた。
小柄な女の身であるから長弓こそ引けないが、それ以外の弓ならば彼女の矢は確実に的を射落とし、その類いまれな美貌と共に人々の喝采を浴びていた。
「弓のおかげで精神統一の訓練ができているから魔法の習得は早いだろうって、導師がおっしゃってくださったわ。ただ、バロ ンの魔法研究は遅れているから、早く身に付けたければ魔道士の
里ミシディアに行ったらどうかって。」
「ミシディアか…、セシルはまだ戻っていないんだな。」
「ええ、『赤い翼』が出撃するなんて、何があったのかしら。」
「向こうも魔物討伐でも要請されたのだろう。ミシディアには軍隊はないからな。」
ミシディアは、東の海の向こうにある、国と言うより里と言うのが相応しい海辺の小国である。
人々は厳しい自然環境を生き抜くため、古くから魔法を研究し、人体の治癒回復を目的とする白魔法、攻撃殺傷を目的とする黒魔法と言う、二つの魔法体系を作りあげていた。
「何もなければいいけれど…。」
「心配はいらない。あいつの強さは俺たちが一番よく知っている。あの恐ろしい暗黒の兜の下の可愛い顔もな…。」
「そうね。」
ローザはくすくすと笑った。
「飛空艇ならミシディアまでは七日程の行程だから、もう戻る頃さ。」
カインは言った。
「…ねえ、カイン。近ごろの王様のご様子は…何かおかしいでしょう？」
カインを見上げローザは声をひそめた。
「ただの偶然かもしれないのだけど、魔物が現れるようになったのと、王様がお城から出ていらっしゃらなくなったのが同じ頃 のような気がするの…。王様はモンスターの異変の原因を何かご存じなのではないかしら…。」
カインはローザの瞳を見つめた。
明るい菫色の奥で、不安な思いが揺れている。
「ああ。」
カインはうなずいた。
「陛下に伺ってみようと思っている。」
「気をつけてね…。」
ローザは言った。
カインには分からない何かを、ローザは感じているようだった。
「…そう。お母さまから、出撃して疲れているだろうから、今夜食事に来なさいって。」
「行っていいのか？」
「え？」
カインの父とローザの父は同じ竜騎士で、盟友だった。
二家族は深く親交を結び、赤子のうちに母を亡くしたカインをローザの母は何かと世話をやいてくれた、そして双方の父の亡く なった今もそれは変わっていなかった。
「お母さま、カインが来ると嬉しそうだし、私もこのところ魔道士団に詰めたままで家に帰っていないの、だから…。」
「お母さんには済まないが、お断わりしてくれ。いつまた魔物が現れるか分からないから、俺も騎士団に待機していなくてはな らない。」
「分かったわ…。」
ローザはうなずいた。
「また来るわね。何かあったら言ってね、大きな魔法は使えないけど、竜の怪我も治せるから。」
「ああ…。」
カインは答えると、小走りに魔道士団のある城内へ戻っていくローザの姿を見送った。
ローザの母は、娘が自分と同じように由緒正しい竜騎士のもとに嫁ぐことを願っていた。
しかしカインは、ローザが親友のセシルに思いを寄せているのを知っていた。
かたわらでうたたねしていた飛竜が、ふと身じろ ぎ、頭を上げた―――。
カインは空を見上げ、耳を澄ませた。
振動するエンジンの、低い唸りが聞こえる。
そして、空をきざみ散らすようなプロペラの高い音。
やがてそれは、南の空から見事な楔形の編隊を組んで、見る間にバロンに近づいて来た。
「『赤い翼』の帰還だ、飛竜を中に入れろ。」
カインは、騎士達に言った。
飛空艇のプロペラの音は、おとなしい性質の飛竜を不安にするのである。
竜騎士達は、各々手綱を引いて飛竜達を竜舎に引き込んだ。
「大丈夫だ、リンドブルム。セシルが帰ってきたのだ、ちょっと行ってくる。」
カインは愛竜の長い首から手綱をはずし、その首を軽く叩くと竜舎を出た。
バロン城の前庭へ、激しい砂ぼこりを巻き上げながら、五機の飛空艇が降下して行くのが見えた。
飛空艇団『赤い翼』―――。
世界随一の機動力を誇る軍事王国バロンの、その象徴とも言うべき飛行軍団。
空対地カノン砲を搭載したその、空飛ぶ船の破壊力を凌ぐものはこの世界にはない。
「あっ、カインさん。」
着陸し飛空艇の整備にとりかかった兵士達が、近づく竜騎士の姿に敬礼した。
「任務は終了したか？」
「はい。」
冴えぬ表情で小隊長は答えた。
「どうしたのだ、何かあったのか？」
見れば兵士達の中には悔しげに、涙をにじませている者さえい た。無事任務を終えて帰ったのなら、疲れてこそいてもこのよう に部隊が意気消沈しているはずはない。
「――セシルはどうした？」
「隊長は、任務の報告に陛下の所へ行かれました。」
「そうか、あいつは無事なんだな。」
「当然です。あんな任務で、我々の隊長が怪我をするわけがありません。」
小隊長は言った。
「…何があったのだ？」
「こんな、後味の悪い任務は初めてです。『赤い翼』の誇りは地に落ちました―――。我々がミシディアでしてきた事を聞いた ら、カインさんは、きっと我々を蔑まれるでしょう。」
「陛下のご命令だろう？ 蔑むような任務のわけがない。」
カインは言った。
「いいえ、隊長も…いつもは何かと我々兵士の事を気遣って下さるあの方が、今回の任務では、帰路の間ほとんど口を開かれま せんでした…。」
ミシディアには古来より世界の四大至宝の一つ『水のクリスタル』が保管されていた。
ミシディアの魔道士達はクリスタルの不思議な力を調べ、世界を転覆させるような悪事を計っている、必ずや『水のクリスタル』 を彼らから奪い、大事を防げ―――。
国王は『赤い翼』にそう命令を下した。
隊長のセシルは、国王から魔道士の魔法攻撃に対抗するためにと、激しい炎を噴き出す赤い牙と電撃を放つ青い牙と言う二つの 高価な竜の牙を渡され、兵士達は魔道士がどのような魔法攻撃を
しかけてくるかと身も固くミシディアに攻め込んだ。
しかし魔道士達は彼らの訪れに驚き、得意のはずの魔法さえ使わず無抵抗のまま、ただクリスタルを奪わないでくれと兵士達の前にひれ伏し哀願したのだった。
『水のクリスタル』はこの地を守護するものです。どうか、我々から奪わないで下さい―――。
ミシディアの長老ミンウはそう言って、兵士達の前で深々と頭を下げた。
しかし、『赤い翼』に下された至上命令は、そのクリスタルのバロンへの移送である。
兵士達は取りすがる魔道士達を打ち払い、長老の館からクリスタルを奪い取った。
「あれでは、我々がやってきたことは、まるで…。」
「――言うな、小隊長。」
カインは、彼の言葉をさえぎった。
「お前たちがこれほど苦しんでいるなら、あのセシルがどれほど苦悩しているかお前たちも分かっているだろう。」
「はい。」
小隊長はうつむいて答えた。
飛空艇を背に、カインは城の階段を上った。
王の間へ続く広い柱廊は、左右に兵士の控え室や魔道士団の研究室や、幾つもの部屋が並び兵士達が行き交っている。
しかし活気に満ちているはずのそこでも、空気はどこか淀んでいた。
魔道士団にいるローザは、敏感に城の中のこの不安な空気を感じ取っているのかもしれない…。
王が城を出なくなってから、都にはバロン王への不審の声が広がっていた。
軍備増強のため税が上がった。
選び抜かれた少数の兵士だけが王の勅命により試練を受け、授けられてきた魔剣、暗黒剣がある時王の手で容易く乱暴者に授与された。
暗黒剣の破壊と殺戮の心を呼ぶ魔力に狂わされたその男達が、突然まわりにいた人間に切りかかり、止めにかかった兵士や大臣を虐殺するという事件があった。
王が大きな生魚をまるのまま頭からかじっているのを見た、などと言う分けのわからぬ噂もあった。
大臣が死んだのは事実だったが、現場を見たわけではないカインは、王を中傷するような噂を信じてはいなかった。
現バロン王は、自分やセシルを我が子のように育ててくれた王である。
武勇の誉れ高い強く優しい騎士、それが本当のバロン王であるはずだった。
ミシディアへの出撃も、決してただの略奪のはずはありえなかった。
「暗黒騎士セシルは来ているか？」
「はっ。ただ今、国王陛下と謁見中であられます。竜騎士カイン殿は、手前、控えの間でお待ち下さい。」
「分かった。」
衛兵の開いた扉をカインはくぐり、王の間に続く小部屋に待機した。
暗黒騎士セシルは、くだんの暗黒剣の試練を乗り越えた魔剣の使い手である。
王に拾われた身なしごのセシルと、両親を早くに亡くしたカインは王の下で兄弟のように育った。
カインは死んだ父の後を継ぎ竜騎士になり、セシルは王の恩に報いるためにと、王国一位の騎士である暗黒騎士になる道を選んだ。
魔剣のパワーを操る暗黒騎士は強力な破壊戦士で、その人並み外れた破壊力にこの騎士を忌み嫌う者もいる。
その上、国王から下賜される暗黒騎士の鎧兜は、肩と頭に角のついたまがまがしい意匠であったので、黒い魔物のようなその姿は見る人を脅かした。
しかし一度その兜の下の、セシルの人なつっこい微笑と繊細な面立ちに出会うと、誰もが彼を愛した。
そのセシルと友であることを、カインは何より誇らしく思っていた。
厚い木の扉の向こうで、謁見を終えたらしい敬礼する足音がした、聞き慣れたセシルの静かな歩調が扉に近づいて来る。
カインは居住まいを正し、扉の前に控えた。
と、足音が止まり、決然としたセシルの声が聞こえた。
「陛下、ミシディアには陛下の言われるような危険な兆しは見られませんでした。そのクリスタルは、あのような無抵抗な人々 から奪わなくてはならないような物だったのですか？ 皆、陛下に不信を抱いております。」
「お前を始めとしてか？」
バロン王の声がした。
「お前ほどの者がわしを信頼してくれぬとはな…。」
「けしてそのような…。」
セシルは言った。
「…残念だが、これ以上お前に『赤い翼』を任せてはおけん。今より飛空艇部隊長の任を解く！」
その王の言葉に、カインは我が耳を疑った。
「陛下！」
セシルの声も驚きに震えていた。
「かわって幻獣討伐の任につけ。ミストの谷付近に幻獣が出没するそうだ。その魔物を倒しミストの村へこのボムの指輪を届けるのだ。出発は明日の朝！」
「お待ちください！」
セシルを吐き出そうと開かれた扉から、カインは部屋に飛び込み王の前にひざまずいた。
「何ゆえに陛下！ どうぞお考え直しを、セシルは誰よりも陛下に忠誠を尽くしてきたはずです！」
カインは言った。
「竜騎士隊長、カインか…。」
まるで、今日初めてカインを見知ったかのような口調で王は言った。
「――お前も、こやつの事が心配なら、ともにミストへ行け！」
「陛下！」
カインは、玉座の上の王を見上げた。
たっぷりとした長衣に、白貂の縁取りの王のマント、見慣れた姿の王の手には、これまでに見たこともないような美事な水晶が 置かれていた。
傷一つ、曇一つない、水と光がそのまま凍ったような大きな石、それこそセシルがミシディアから移送した『水のクリスタル』で あろう。
生魚を頭から…。
ふと噂がカインの頭をよぎった。
幼い頃からよく知っているはずの、壮年の王の顔に不気味な違和感を感じて、カインは王の隣に控える近衛兵長ベイガンに視線 を移した。
ベイガンは迷惑げに横を向いたが、その横柄な顔はいつもと変わらない。
「もう話すことはない。その指輪を持ち下がるがよい！」
玉座を蹴らんばかりの勢いで立ち上がり、王は言った。
「陛下！」
セシルは叫んだ。
すかさず剣の柄に手を添えた近衛兵が、王に追いすがろうする二人の前に立ちふさがった。
「さあ、おとなしく下がられることです。ミストの谷の幻獣を倒し、これをミストの村に届けるように―――。王命です。」
近衛兵長ベイガンは、そう言うとセシルの手に赤い指輪を握らせ、王の間から二人を押し出した。
重い扉が、二人の背で音も高く閉じられた。
固く閉じられた王の間は、再び謁見を願う術もない。
「僕のせいで君まで巻き込んでしまった。すまない…。」
セシルは言った。
「気にするな。兵士達から話は聞いた、ひどい任務だったようだな。」
「うん…。陛下は場合によってはミシディアを破壊しろとさえ言われた。それなのにミシディアは無抵抗だった。一人だけクリ スタルを守ろうと雷を落とした魔道士がいた。僕は彼を切ったよ。
僕たちがしてきたのは、まるで略奪じゃないか？」
「セシル。」
カインは言った。
「幻獣討伐だ。任務を果たしてくれば、陛下もまた話を聞いて下さるだろう。」
「うん…。」
セシルは、指を開き手の中の赤い指輪を見た。
「準備は俺がしておくから、今夜はゆっくり休め。」
カインは、銀髪のかかるセシルの黒い鎧の肩を叩いて言った。
「ああ、大丈夫だよ。」
セシルはカインに笑って見せた。
いかめしい鎧をまとい、それでもその表情は親に見捨てられた子供のようである。
カインには両親がいた、しかしセシルは赤ん坊のときから王の下で育てられたのだ。
如何なるときも威厳ある物腰で、もの事の判断には必ず熟慮し、何よりも欺瞞を嫌う王。
騎士の行いなんたるかを、自分とセシルに実践をもって教えてくれた強く優しい騎士…。
それが、あのバロン王だろうか―――？
「陛下はどうされたのだろう？ 」
セシルは呟いた。
「ああ。」
カインも答えた。
∵ ∵ ∵
高い城壁を乗り越えて吹き込む朝風が、夜の淀みを王城から拭っていく。
夜番の兵士が交代し、町の門が開かれると王城に新鮮な食物を供給する農民達が、近郊からミルクや野菜を背負ってやって来る。
「モンスターの様子はどうだ？」
衛兵が言った。
「今朝は会わずに済みましたよ、盗賊が出なくなりましたが、モンスターよりは盗賊の方がずっといいですよ。」
農民達を護衛して来た村の守備兵は答えた。
「一体何が起こったんだろうな。」
「昼間でも、丸腰で村の外へ出られなくなるなんて…。」
兵士はそろって平原に続く街道に目を向けた、しっとりと朝靄の立つ青い夜明けは例年に変わらぬ晩秋の景色であったが、視界の効かぬ薄闇は前線に立つ兵士達を不安にした。
「竜騎士団のカイン隊長と『赤い翼』の暗黒騎士セシルが、辺境のミストの谷にモンスター退治に出掛けるんだ。」
「今日かい？」
「そうだ。日の出と共に飛竜で出発されるはずだ。」
「そんな辺境のモンスターより、こっちのほうが心配じゃないか…。」
「王様の命令だからな、なにか重大なことなんだろう。」
「そうか…。」
こんな異変の最中、バロンの強力な部隊の隊長が二人揃って都を離れるのを心細く思うのはいずれの兵士も同じことだった。
「嫌な月だな。」
衛兵が空を見上げて言った。
空には、二つの月が靄を透かしてまだぼんやりと光っていた。
二つ並んだそれは、まるで空から見下ろす目のようである。
「ああ、ぞっとしないな。」
守備兵は首をすくめて答えた。 「頼むぞ。」
そう言ってカインはリンドブルムの首を撫でた。
二つの鞍を背に掛けられた飛竜は、武者震いのように巨大な翼を震わせて主の言葉に答えた。
「リンドに乗るのは久しぶりだな。」
セシルは飛竜の広い背中を見上げて言った。
バロン城の中庭には、朝まだきにもかかわらず多くの騎士や兵士が二人の騎士の出発を見送りに集っていた。
「幻獣って言うのがどんなモンスターかわかりませんが、赤い翼のセシルとカインさんが組めば、怖いものなしですよ。」
兵士の言葉に、一同は大きく頷き合う。
「…とは言え、ミストの谷などと言う辺境、なにが起こるかも分かりません。隊長、どうかお気を付けて。」
「ああ、後は任せたぞノトス副隊長。」
カインは言った。
「やはり、我々をお連れいただけませんか？」
「陛下のご命令は、私とセシルに下されたのだ、お前たちはバロンを守らなくてはならん。」
「はい――。」
ノトスは歯がゆげに答えた。
「飛空艇で出撃すればあっと言う間だと言うのに、陛下は何故セシル隊長を一人で行かせるんだろう？」
飛空艇団の兵士達は怪訝そうに言った。
『赤い翼』の隊長の地位をセシルは昨日、国王に剥奪された。
しかし国王は、未だセシルの隊長解任を人々に知らせていなかった。
それもまた、バロン王らしからぬ行いだった。
「みんな――。」
セシルは言った。
「私がいない間、迂闊なことは決して口にしてはいけない。陛下あってのバロン、陛下あっての飛空艇団なのだから。…何か困りごとがあったら飛空艇整備隊長のシドに話すのだ、いいな。」
「はっ。」
赤い翼の兵士達は一斉に敬礼して答えた。
「行くぞ。」
カインの言葉にセシルは強くうなずいた。
高く広い竜の背に、二人は上った。
「お二人のご武運を祈っています。」
彼ら赤い翼と竜騎士団の精鋭の兵士達もまた、二人が王都を離れるのを心細く思っていた。
実際、『赤い翼』や竜騎士隊が出撃するのは当然でも、双方の隊長だけが辺境のモンスター退治に差し向けられるなど異常なことであった。
しかし、その理由を隊長に問う間もないほど国王の命令は急に下されたのだった。
「上昇！」
竜の背に立ち、手綱を握ってカインは言った。
両翼が強く地を打ち、つむじ風を起こす。
「お気をつけて！」
「早く帰ってきて下さい！」
兵士達は口々に叫んだ。
セシルは片手を上げて彼らに応えた。
巨大な翼を広げ飛竜は舞い上がった。
見れば、城のあちこちからこちらを見送る人々の姿があった。思い思いに手を振る兵士達、敬礼する騎士―――。
二人は同時に、王の部屋のある天守の窓に目をやった。
真っ暗なそこには、誰の人影もなかった。
「あれ、ローザかな…。」
セシルが言った。
靄の流れる城壁の一角から、こちらを見上げている小さな白い姿がある。
「手、振ってやれ。」
「うん。」
セシルは静かに右手を振った。
下方でひらひらと、少女が手を振り返したのが見えた。
王都の上空へ舞い上がった竜は、追い風に乗り北西へ滑空した。
城壁の上の白い姿はすぐに見えなくなった。
「しばらくぶりだねリンドに乗せてもらうのは、やっぱり気持ちがいい。」
「昨日、ローザには会ったか？」
「うん、僕の様子がいつもと違うって…。ローザはすぐに気づくね。」
「ローザの気持ちを知っているんだろう？」
「…ああ。」
セシルは答えた。
「でも僕は暗黒騎士だ。僕は陛下の命令には逆らえず、この魔物のような姿の通りミシディアで無抵抗な人々を傷つけ殺した。彼女には、相応しくない。」
「お前の気持ちはどうなんだ。」
「わからない…。」
セシルは首を振った。
「セシル…。」
遠い山の端を見つめてカインは言った。
「何があっても、お前は俺の友だ。いいか、自分を責めるんじゃないぞ。」
「うん。」
後ろで小さく声がした。
ゆっくりと平原の靄が晴れ、彼方に黄色い荒野が見え始めた。
風が二人の騎士の頬を撫でてすぎた。
旅は順調だった。
三度荒れ地の草を枕にして飛び続けると、やがて険しい山岳地帯の入口に深い霧に覆われた谷が迫った。
「これ以上は、リンドでは進めないな。」
谷は狭く、霧は数メートル先の視界も妨げる。
カインは、二人がミストの谷に到着した旨をしたためた手紙を鞍に結びつけると、飛竜をバロンへ飛び立たせた。
リンドブルムはカインとセシルの頭上を幾度か旋回し、やがて南東の空へ飛び去った。
岩のじっとりと湿る、深い谷間に二人は踏み込んだ。
陽の当たらぬそこは、いわずもがな魔物達の領域である、いくらも進まぬうちに芋虫に似た巨大な怪虫が道を阻み、岩間から湧き出すようにゴブリンが襲いかかってきた。
知能こそ低いが、頑丈な体と強い攻撃力を持つモンスター達、普通の人間なら彼らに襲われては一溜りもないが、王国屈指の騎士であるセシルとカインには、そのような魔物などものの数ではない。
セシルの剣は次々にゴブリン達を打ち払い、カインの長槍は巨大な芋虫の固い頭を貫いた。
むしろ、この谷での敵は進むにつれ深さを増す霧だった。
足場は比較的平らかで、それはこの谷がけして人の通わぬ道ではない事を語っていた、と言うのにこの霧の人を寄せ付けぬ濃さはひどく不自然に思われた。
ときおり魔物の飛び出してくるミルクのような霧の中を二人は、微かに聞こえる谷川のせせらぎに耳を澄ませ岩壁を手探りして進んだ。
「この霧では、隣に幻獣がいても気づかないかもしれんぞ。」
カインは言った。
「それは困るな。この谷の霧は晴れることはないんだろうか。」
剣の汚れを布でぬぐいながらセシルは言った。
「ミスト…、霧の谷と言うぐらいだからな。」
カインは兜を取ると頭を振った、霧にそぼ濡れた髪の先から滴が落ちる、鎧にも霧の流れたあとがすじを作っている。
と、何処からか静かな女の声が聞こえた。
『引き返しなさい…。』
「誰だ？」セシルは言った。
『引き返しなさい…。』
『引き返しなさい……。』
声は木霊のように言葉をくり返した。
カインは油断なく辺りを見回した、声はすぐ傍らで聞こえるようなのに、霧の中に人の気配はない。
「まさか、これが幻獣なのか？」
カインの言葉に、二人は武器を構えた。
しかし何者も、こちらに襲ってくる気配はない。
二人はなだらかな斜面を見つけると、その上に突き出した岩棚に登り、霧の流れてくる方角を見定めて再び谷を進み始めた。
『バロンの者ですね？』
また声がした。
「お前が幻獣か？」
カインは聞いた。
『…悪いことは言いません、すぐにこの地を立ち去るのです。』
「そうは行かないのだ、僕たちはこのボムの指輪をミストの村に届けなくてはならない。」
『立ち去るつもりはないのですね？』
「ない。」セシルは言った。
「君が何なのか分からないが、僕たちの邪魔をするなら、倒さなくてはならない―――。」
突然、小川の流れるような音が近づき大きくなった。
濃い霧が渦を巻き厚く固まったと思うと、それは見上げるような巨大な白い竜に変わった。
「霧の竜、ミストドラゴンか――。」
「行くぞ―――。」
呟くと二人は竜に切りかかった。
長い竜の尾が岩を蹴散らして、二人に打ちかかる。
セシルは剣を顔の横に構えて飛び退き、カインは崖の斜面を蹴って高く跳躍した。
セシルの剣から鉛色の光が飛び出し、幾本もの短剣のように竜の白い体に突き刺さった。
カインの長槍が、真上から竜の背を刺し貫いた。
傷口から白い霧が噴き出す。
再びセシルの暗黒剣が竜を襲った、竜はもうもうと霧を噴き出すと、濃い霧の固まりに姿を変えた。
槍を回転させ、カインは霧に打ちかかった。
突然、激しい冷気が二人に吹きつけた。
霧にびしょ濡れの体が、凍るように冷え上がり武器を握る手の動きが鈍る。
その二人の前で、霧はまた竜の姿に変わった。
「暗黒剣！」セシルが叫んだ。
カインは鋭い穂先を竜の顔に向けて跳躍した。
鉛色の光が竜の胸元へ吸い込まれるように飛んで行き、白い霧が立ちのぼった。
ミストドラゴンの目が、カインを見た。
モンスターにはない、その意思のある青い瞳に虚を突かれ、カインは手元を狂わせて竜の喉を刺し貫いた。
ザアアッ―――！
土砂降りに似た激しい音がした。
全身から霧を噴き出した竜は、陽を浴びた雪が解けるように消えた。
「やったか。」
カインは辺りを見回し言った。
「ああ。」セシルが答えた。
ミストドラゴンが消え、谷の霧も消えていた。
はるか上方からの日差しが、谷の所々に影を落とし、青空の望まれる谷の出口はもう目と鼻の先にあった。
「僕たちを、通したくなかったようだね―――。」
「そうだな。」苦く、カインは答えた。
物言いたげだった竜の目が、胸にかかる。
「…ミストの村へ行けば、理由がわかるかもしれん。」
「うん。」
谷を抜けると、草原を渡る風が二人の濡れた髪を乾かした。
小道が草原の中程の、針葉樹の森を背にした小さな村へと続いている。 どこからか、悲鳴のような激しい子供の泣き声が聞こえた。
村の入口には珍しい魔除けの石柱が建っていた。
それは、三面を持つ女性の像で村の外へは怒り、内側には笑い、そして入口に立つ者には慈愛の微笑みを向け、魔物のようにも、女神のようにも見える不思議な石像だった。
二人がその石柱を通り過ぎようとした時、突然セシルの指にはめられていた、赤い指輪が光を放った。
「あつっ…！」
焼き鏝を押しつけられたような痛みが腕にはしり、セシルは慌てて左の指から指輪を抜き払った。
もし、そのまま指輪をはめていたら、セシルの指は焼き切れていたかもしれない…。
指輪は草の上に落ちると自らくるくると回転し、瑪瑙のように見えた赤い石から魔物を吐き出したのである。
白熱した光を放つ石から、恐ろしげな顔のある火の玉が次々に飛び出した。
火炎の魔物ボムである。
ボムは、仲間と共に炎の手をつなぎ弧を描いて、ミストの村の空に踊った。
屋根に、開いた窓に、積まれた薪に、井戸の柱に、村に迫る森に、魔物達は炎を振りまいてひとしきり踊ると次々に自爆し、より激しい炎となって村を焼いた―――。
「このため…？」
セシルは言った。
火の中から、人々の叫びが聞こえる。
「このために…僕らはここまで……？」
「この村を焼くため…。」
茫然と、二人は言った。
火から逃れようと、人々は村の外へ飛び出していく。
火勢の余りの強さに、誰もそこに立つ二人の騎士を気に掛けるものはなかった。
二人は、村へ踏み込んだ。
十戸もない、そのわずかな家のすべてが、火炎放射を浴びてでもいるように激しく燃え上がっていた。
「――なぜだ？ 陛下！」
セシルは叫んだ。
梁が焼け落ちたらしい石造りの家の一つが、がらがらと音を立てて崩れ、あたり一面に火の粉を降らせた。
「…あの竜は、バロン王の狙いを知っていて俺たちを行かせまいとしたんだ。」
カインは呟いた。
どこからか、しゃくり上げる小さな泣き声がした。
二人は顔を見合わせた。
どんな小さな命も、もう無くしたくない。
無残な骨片を、誰にも拾わせたくない…。
二人は子供の姿を捜して、燃えて崩れる家の間をくぐり抜けた。
エッ…エッ…ヒクッ―――。
それは、七才くらいの女の子だった。
少女は炎の上がる家から、母親の体を引きずり出そうとしていた。
カインは駆け寄り、戸口にくず折れた母親を抱き上げた。
冷たい感触がカインの腕に走った、力のないその体はすでに事切れていた。
セシルは少女をつれ、村のはずれへ走った。
火の粉を吹き上げ、また家が崩れた。 草地に、カインは少女の母を横たえた。
「お母さんのドラゴンが死んだんで…。」
母の亡骸のかたわらにしゃがみ込み、少女は言った。
「お母さんも死んでしまったの…。」
泣きはらした目と涙でべたべたの顔を、また涙が流れた。
大きな衝撃が、セシルとカインを襲った。
「白い、霧の竜かい？」セシルは言った。
少女はしゃくり上げながら、こくりとうなずいた。
「召喚士…か？」カインは言った。
それは、魔物を呼び出し意のままに操る力を持つと言う、伝説の一族である。
「では、陛下は、ミシディアの魔道士と同じに、召喚士が何かを企んでいるとでも言うのか？」
「陛下の目的が、この村の召喚士を根絶やしにすることだとすると、…あの子も、殺らねばならぬのかもしれないな…。」
カインは言った。
「カイン！」
「子供であろうと、召喚士の血を引くなら魔物を呼び出せるのではないのか？ 母親があの竜を操っていたのなら―――。」
「たとえそうでも、僕は子供を殺してまで陛下に従うつもりはない！」
セシルはきっぱりと言った。
「ああ。」
その言葉に、カインは微笑して答えた。
「お前なら、きっとそう言うと思っていたよ。」
「カイン…。」
「俺も、竜騎士の名に恥じるような行いなど、出来るものか。この…バロン王の殺戮行為を他の国に知らせ援軍を求めよう――。ローザも救い出さんと…。」
「ありがとう、カイン。」
「別に、お前のためじゃないさ。」
カインは言った。
大火が村に逆風を呼び、熱風が地面に吹きつけ始めた。
「…早く村を出よう。あの子はどうする？」
「僕らが連れて行くしかないだろう。」
少女は、母の亡骸のそばでいつしか泣くのをやめていた。
「お兄ちゃんたちはだれ？」
少女が言った。
「さあ、ここは危険だ。」
「いやっ！」
セシルが差し伸べた手から、少女は身を引いた。
大きく見開いた瞳に、炎が映って揺れている。
熱風に煽られて見る間に広がり始めた森の火が、村を包み始めていた。
「ここは危ない、いっしょに行こう。」
「いやっ！」 少女は母の腕をつかんで言った。
「やむおえん。」
少女を抱きかかえよう、カインは両手を伸ばした。
「ちかよらないで！ お兄ちゃんたちが、お母さんの竜を殺したのね！」
少女の黄緑色の瞳が二人を見据えて強く光った。
「待ってくれ…。」 セシルは言った。
少女は小さな両手を炎に煙る空に差し伸べた。
「もういや！ みんなみんな大嫌い、もういやぁー！」
少女が叫んだ瞬間、その両手の間から青い光が弾け飛んだ。
巨大な岩が落下したような振動が、村を襲った。
カインは、山のような巨人が村の炎の上に立ち上がったのを見た。
まるで夢のような、その光景の中で巨人は拳を握りしめて大地を打った。
グワン――！
不気味な音と共に、地面に亀裂が入りセシルとカインの間に断崖が口を開けた。
「セシル！」
カインは断崖を飛び越えようと地面を蹴った。
その時、二度目の揺れが村を襲った。
断崖は耳障りなきしみを上げてぶつかり合い、そして高く反り上がった。
「カイン！」
少女をかばいながら、セシルは呼んだ。
盛り上がる断崖の向こうに、互いの姿が見えなくなっていく。
「セシルッ―――！」
大地は、荒海のように激しく揺れ、カインは地面にしがみついた。
鋭く反り上がった断崖の頂きがぼろぼろと崩れだし、土砂の波がカインを襲った。
∵ ∵ ∵
低いエンジンの唸りが耳元に聞こえた。
飛空艇の磁力モータ−の音だ。
カインは、目をひらいた。
白い、表情のない女がひとり、自分を見下ろしていた。
女はカインが目を覚ましたのを見ると、滑るように部屋を出て行った。
虚を突かれながら、カインは起き上がり部屋を見渡した。
見覚えのあるそこは、『赤い翼』の旗艦の船倉である。
「暗黒騎士セシルはどこだ？」
その声に振り向くと、扉の前にバロンの軍服を着た兵士が二人、立っていた。
二人の顔は青く、驚くほどに生気に乏しい。
二人は同時に口を開くともう一度言った。
「暗黒騎士セシルはどこだ？」
その声は、まるで冷気のように冷たくカインの顔に吹きつけた。
「わからん。」
眉をしかめ、カインは答えた。
二人はじっとカインを見つめたが、やがて無言のままきびすを返した。
「待て、この船の指揮官は誰だ？」カインは聞いた。
しかし見慣れぬ二人の兵士は何も言わず扉に向うと、そのまま閉じた扉に吸い込まれるように姿を消した。
カインは兵士の後を追い、扉を押した。
鋲の打たれた戸は厚く重く、扉には外から鍵が掛かっている。
―――魔物が飛空艇に乗っているのか？ それとも自分は夢を見ているのか？
カインは耳を澄ました。
板張りの飛空艇は、軍靴の高い足音をよく吸収するが、代わりにどれ程忍び足で歩いても板ならではの軋みをあげる。
しかし、船は無人のように静かだった。
上の甲板からも足音一つせず、聞こえるのは船倉の後部にあるエンジンの音と、プロペラの回転音、横風を受けているらしい船体のきしみだけである。
「誰かいるか？」
カインは扉を叩いた。
しかし、いくら呼びかけてもカインに答える声はない。
カインは寝台に腰かけた。
カンテラの灯る船倉は外が昼か夜かも分からないが、土砂に打たれた体の重い痛みはまだ生々しかった。
突然、鍵の開く音がし、扉がノックされた。
白い顔の女と、あの二人の兵士がカインの鎧冑と槍を捧げて部屋に入ってきた。
「間もなく、バロンに到着いたします。どうぞご用意を。」女が言った。
その口調は、棒読みの台詞のようで枯れ木の先で鳴る風のような声だった。
カインは鎧をまとい槍を取った。
そうしてカインが身仕度をしている間、三人は鎧を置く台のように身じろぎも瞬きもせず、そこに立っていた。
カインも無言だった、この非人間的な連中に何を言っても聞いても無駄であろうことは目に見えていた。
やがて、飛空艇は降下態勢に入った。
推進エンジンと浮力エンジンの出力を微妙に落としながら、『赤い翼』は見事な操縦でバロンへ着陸した。
外は夜だった。
攻城機の一部を改造したタラップが飛空艇に寄せられ、カインは船倉から出された。
飛空艇には相変わらず人の気配はない。
人の姿をしてはいるが、人と思えぬ三人に回りを囲まれカインは飛空艇をおりた。
真夜中であるのだろう、バロン城は静まり返っていた。
門衛もいない入口をくぐり、わずかに灯された松明がめらめらと炎を上げる柱廊をカインは連行されるように王の間へと導かれた。
王の間の扉の前では、近衛兵が壁に寄りかかりぐっすりと眠っていた。
王の間に入ると、女と兵士は王のかたわらに控えた。
「無事でなによりであったな、カインよ。」
玉座の前に跪いたカインに王は言った。
「役目を果たし大儀である、してセシルはどうした？」
王の間は、物凄い生臭さに満たされていた。
カインは息も吸えぬ嘔吐感をこらえながら、顔を上げた。
二本の大燭台の明かりに照らされている王の顔は頬に大きく青い影が落ち、眼球はぎょろりとして膨らんでいた。
それは何か、ある種の爬虫類や魚類を思わせる顔になっていた。
「セシルとは、ミストの村の大地震ではぐれてしまいました。」
「うむ、このもの達の報告によると、周辺の山の形までが変わるほどの地震であったようだな。セシルも無事だとよいが…。―――カイン、お前は地震が起こったとき何かを見なかったか？」
「何かとは？」
「うむ、魔物とかな―――。」
「陛下のおことづての指輪から現れた魔物ならば、この目にいたしましたが―――。」
「怒っておるのか？ そうか。」
けっけっと、王は異様な声を上げて笑った。
カインは胸の悪くなる思いをじっとこらえた。
この王が過日の敬愛した王と同じ人間とはもう思うまいと、カインは考えた。
「では、地震で何も現れたのではないのだな。ミストの召喚士は全滅したのだな？」
「…はい。」
カインは答えた。
その時、どこからか忍び笑いが聞こえた。
「…竜騎士は、嘘をつくのはあまり得意ではないようだな。」
カインは振り返った。
黒く異様な鎧冑の極めて丈高い騎士がそこに立っていた。
「聞き捨てならぬぞ、ゴルベーザよ。そちは召喚士がまだ生きていると言うのか？」
「はい、陛下。」
騎士は、言った。
「部下に付近を探索させましたところ、ミストの北西の砂漠地帯で暗黒騎士らしき男が子供を一人つれ、オアシスの町カイポの方角に向かって行ったとのこと…。カイン殿はご存じありませんか？」
「知らん。…お前は何者だ。」
「陛下、この誇り高いバロンの竜騎士に私をご紹介ください。」
「うむ。」
王は重々しくうなずくと口を開いた。
「カイン、その者の名はゴルベーザと言う。飛空艇団『赤い翼』の新しい隊長だ。」
騎士は黒い冑をぬいだ。
長い銀髪が、濃紺のマントの上に滝のように落ちた。
「お見知りおきをカイン殿、同じバロンの隊長として陛下に忠誠をつくしましょう。」
その差し出された手を、カインは打ち払った。
「何をされる？」
騎士は驚いたように言った。
「赤い翼の隊長はセシルだ！ このような得体の知れぬ男に飛空艇団を任されるなど、陛下はどうされたのです！」
「ほお、ゴルベーザが隊長では不満か。では、カインお前が赤い翼を率いるか？ そちも飛空艇を操縦できるとベイガンが言っておったな…。」
「な――。」
「陛下、このゴルベーザ、竜騎士隊長でも異存はない。」
ビュゥッ！
粘り着く空気を切るように槍を唸らせて、カインは王の前に立った。
「最早、あなたは俺が、信じていた王ではない。あなたは、あなたの命令で殺された人々のために死ぬべきだ。」
兵士が剣を抜き、女は王の前に立ちはだかった。
「お前で、わしが殺せるかなぁ。」
王は引きつるような異様な声で笑った。
「うぉお―――！」
気合いを込め、カインは槍を一閃させた。
そのきらめきは一瞬にして兵士の胸を刺し貫き、二人の兵士は青い顔を呪わしげに歪めながら塵になって消えた。
「やはり魔物か。」 カインはおぞましげに言った。
「魔物と結託するとは、バロンもこれまでよ！」
女の青いドレスと見えた半身は、消えて煙のように透き通り玉座のある段の前に浮かんでいた。
それはモンスターと言うよりも、死霊のようだった。
表情のない白い顔が、ぽっかりと黒い口を開けて笑った。
カインは実体と見える上半身に槍を突き出した。
手ごたえに穂先を回し柄をひねると女はどうっと倒れたが、その姿は床につく前に青い煙となって明かり取りの小窓から外へ消えた。
「さあ、あなたの番だ！」
カインは槍先を王に構えて言った。
「ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ。」
王は不気味に笑うと、のっそりと玉座から立ち上がった。
「やるか？ わしは簡単にはいかんぞ。」
王の体が突然肥大したように見え、そして歪み、にやりと笑った目が白目を剥いた。
その全身から腐った水と魚の匂いが、激しくカインを襲った。
「うおぉ―――！」
カインは突進した。
瞬間、雷の閃光と激しい衝撃がカインを襲った―――。
指の力が抜け、カインは槍を取り落とした。
「反逆罪ですな、陛下。」
ゴルベーザが言った。
カインは呻いた。
全身に激しい痺れが走り、意識を保つのさえ苦しい。
「この者を牢へ―――。」
ゴルベーザのマントが目の端で揺れた。
∵ ∵ ∵
「カイン――。」
細い、声が聞こえた。
「カインでしょ？」
カインは石の床の上で瞳を巡らせた。
鉄格子の向こうにローザらしい人影が見える。
「ロ、ザ…？」
「そうよ、体…どうかしているの？」
「…し、び、れ。」
「痺れ？」
ローザが、何か言葉を反芻しているのが聞こえた。
やがて、格子の向こうから緑色の波動がカインを包んだ。
足と指の先から、痺れが静かに抜けていく。
カインは大きく息を吐いた。
冷え切っていた体に、血が暖かく巡り始めた。
「ローザ、こんな所に来てはだめだ――。」
カインは格子に寄ると言った。
「カイン、何があったの。セシルは生きているんでしょう？」
「…ゴルベーザを知っているか？」
「ええ、黒い甲冑の騎士でしょう。王が呼んだのよ、セシルはミストの謎の大火と地震で死んだ、だから、新しい赤い翼の指揮官にって…。嘘でしょうカイン、セシルが死んだなんて誰も信じていないわ。あなたも生きていたのだもの…。」
「ああ。だが、あいつが無事かどうかも分からない。」
「………。」
「ローザ、陛下はおかしい。城には近づくな。」
「ええ、ゴルベーザが来てから、城は王の許可を受けた者以外立入り禁止になってしまったわ。魔道士団も閉鎖されて私も家に帰っているの。今日、リンドブルムがあんまり落ち着かないからって、ノトスさんが家に来て。私、リンドの様子を見て、絶対あなたが城のどこかにいるんだと思ったの…。」
「そうか…。」
他の牢に人の入っている気配はない、ここは城外の塔の下にある牢であるから、城の守りが厳重になっている今は、こちらの守りは手薄なのであろう。
「ローザ、俺の命ももうどうなるか分からない。二度とここへは来るな。セシルはもしかしたらダムシアン砂漠にいるかもしれないと―――。」
牢に、固い足音が響いた。
階段を降り、ほの暗い通路から黒く重い甲冑の騎士が歩いてきた。
「こんな所に、蝶が紛れ込んでいるな。」
「行け、ローザ。」
カインは言った。
ローザは間近に迫る騎士の異様な姿にしり込みしたが、逃げ出そうとはしなかった。
「あなたは何者？ このバロンで何を企んでいるの？」
「ローザ！」
「勇気のある娘だ。だが、足がすくんでいるか？」
「はぐらかさないで！ あなたは何を企んでいるの？ あなたが、王をおかしくしたのではないの？」
「だとしたら、どうするのだ？」
ローザはあとずさった。
黒い鎧で覆われた手が握りつぶすように眼前に迫った。
「逃げろ、ローザ！」
ククク―――。
ゴルベーザが笑った。
「蝶一匹殺したところで、何にもならぬわ。白魔道士の玉子か、精進するがいい。」
そう言って、ゴルベーザは後ろを振り返った。
暗がりに数名の近衛兵の姿がある、彼らは牢に近づくと鍵を開けた。
それは顔見知りの兵だった。
「コリントン――。」
カインは、呼びかけた。
兵の顔は凍りついたように固く、こちらを見ようともしない。
「陛下は、お前を私に託された。来い。」
ゴルベーザが言った。
「なに？」
「本当ならば、王への反逆は死罪であろう？ 有難く思うがよい。」
「陛下は、カイン殿がゴルベーザ殿の補佐をされる事をお望みです。」
近衛兵が言った。
「誰が、こんな男の！」
カインは、近衛の腰から剣を引き抜いた。
しかし兵士は棒立ちのまま、魂を抜かれたように動かなかった。
「やめるのだ、カイン。お前は昨日私の力を味わったはずだ、この娘が怪我をするぞ。」
「―――。」
カインは剣を動かぬ兵の鞘に戻した。
「カインを、どこに連れていくの！」
「来るな、ローザ。」
「カイン！」
追いかけようとしたローザの前に、近衛兵達が立ちはだかった。
「通して！」 ローザは言った。
その脇をすり抜けようとするローザの腕を、兵士はがしりと掴んで、押しとどめた。
「カイン！」
ローザは両手を握りしめて牢に立ちつくした。
遠くで、飛空艇の飛び立つ音がするまで、ローザはそこに留め置かれた。
飛竜が騒いだ。
高く、落ち着かぬ鳴き声を上げる。
「どうしたんだ、リンド。やっぱり隊長が近くにいるのか？」
手綱を握り、ノトスは幾度もリンドブルムの首を撫でた。
ケゥーン、ケゥーン―――。
高く空に響くそれは、飛竜が親や主を呼ぶ声である。
ノトスも落ち着かず、竜舎と外を幾度も行き来した。
その様子に、他の竜騎士達も集まり、彼らは互いに顔を見合わせては、入ることのできなくなった王城を見上げた。
暗黒騎士セシルと竜騎士隊長カインはミストで死んだ。
近衛兵からの知らせはそっけなく、竜騎士も赤い翼のセシルの部下達も、一朝一夕にはその言葉を信じられなかった。
その矢先の飛竜の行動は、彼らに何かの確信を与えようとしていた。
「だめだ、リンドが押さえられん。」
竜舎でしきりに羽ばたこうとするリンドブルムに、ノトスは仲間の応援を頼んだ。
「副隊長、リンドを外に出してやったらどうです？」
「しかしこの勢いでは飛んでいってしまうかもしれないぞ。」
「飛んでいくなら、きっと隊長の所にちがいない。」
騎士達は言った。
「そうだな。」 ノトスも頷いた。
「何人か準備してくれ、リンドを飛ばせてみる。」
鞍が乗っていた竜の騎士が四人、飛竜にまたがった。
折しも、城壁を挟んで向こう側にある前庭から飛空艇が浮上し、プロペラの音に飛竜達は神経質げに体の表面を震わせた。
「副隊長！ ノトス副隊長は居ますか！」
突然、城壁側の通路から赤い翼の兵士が飛び込んできた。
「見間違いかもしれない、でもあれはカインさんでした！」
「なんだ？ 隊長がどうした！」
「あ、赤い翼に―――。」兵士は空を指さした。
「武器も持たず、ゴルベーザにまるで連行されるみたいに！」
「なんだって！ 飛空艇に赤い翼の兵士は乗っているのか？」
「いいえ、皆ゴルベーザの連れてきた部下です。」
「行きましょう、副隊長！ この距離ならまだ追いつける。」
「―――よし。」
竜舎から出されたリンドブルムは、ノトスが背に乗るのももどかしく羽ばたき、舞い上がった。
「隊長がいるのか？」 リンドはためらわず、その首を飛空艇に向けた。
翼は力強く風を切りノトスは行く先をリンドに任せて、飛行の負担にならぬように身を低くした。
プロペラの音が近づき、顔を上げると飛空艇の船尾が間近にあった。
後続の竜騎士達は、飛竜がプロペラの音を嫌がるばかりに大きくリンドに遅れていた。
ケゥーン―――！
リンドが鳴いた。
「隊長、おられますか！ カイン隊長！」
ノトスも声の限りに叫んだ。
リンドの鳴き声がした。
カインは、船倉につながれていた。
後ろ手にはめられた手枷の鎖は、帆柱の付け根に巻かれて鍵をかけられ、カインの体は柱から腕の長さ分も離れることはできなかった。
ケゥーン―――！
空に響き渡る、その声は間違いなくリンドブルムの声だった。
「おもしろいみものだ、竜騎士よ、飛竜が飛空艇を追いかけてきているぞ。」
船倉の扉を開けると、ゴルベーザは言った。
「けなげなものだな、会ってやるか。」
ゴルベーザは柱から鎖を解いた。
「その姿を、仲間にみせてやるのだ。」
カインは無言のまま船倉を出た、鎖の先はゴルベーザの手に巻かれている。
重い鎖が、一歩進むたびに後ろで耳障りな音を立てる。
「速力を落とせ。」
甲板に上がるとゴルベーザは言った。
舵を取る兵士から返答はないが、飛空艇はすぐに速度を落とした。
「カイン隊長！ おられますかっ！」
ノトスの声がした。
ゴルベーザに促されるまま、カインは舷側に近づいた。
飛空艇の下後方から飛竜が上昇してくる。
「ノトス！ リンドブルム！」
カインは呼んだ。
「隊長！」ノトスは答えた。
その声にリンドは、嬉しげに鳴いた。
「ノトス、よく聞け。俺はもう、バロンには生きて返れないかもしれない。」
「！ 何ですって！」
「俺は、殺戮をくり返す陛下を殺そうとした、今は反逆罪の身だ。だが俺は、間違ったことをしたとは思っていない。」
「隊長！」
「みんなに伝えてくれ、これからバロンには恐ろしいことが起こるかもしれない、だが何が起こっても決して竜騎士の誇りを忘れるな！」
ノトスは見た。
黒い騎士、ゴルベーザがカインを戒めた鎖をしっかりとその手に握っているのを―――。
えもいわれぬ怒りが、ノトスの胸にこみ上げた。
「リンド！ 隊長を助けるんだ！」
ノトスは飛竜を、より高く空に上昇させた。
「やめろ！ ノトス！」
カインは叫んだ。
「天駆ける稲妻、バロンの竜騎士の力を見ろ！」
急降下する飛竜の背から、ノトスは槍を構え甲板の黒い騎士めがけて飛んだ。
ゴルベーザがその片手を空にかざした。
青い光が空に走り、ノトスは光に打たれ弾かれ、空中に飛ばされた。
槍と、ノトスが落下して行く。
「リンドブルム！」
カインは呼んだ。
「ノトスを助けるんだ！ 行け！」
激しい主の声に、リンドは命令に従った。
強いはばたきと細い尻尾の先が、舷側から下方に消えた。
「速度を上げろ。」
ゴルベーザが言った。
「ゆるさん。」
鎖を握られ下をのぞき込むこともできず、カインは言った。
冑の下のゴルベーザは笑っていると、カインは思った。
∵ ∵ ∵
船倉に繋がれたまま、カインは眠った。
飛空艇はどこに向かっているのか、二度ほど山脈を越えたことだけは船の動きでわかった。
やがて船は長く長く降下し、深い闇の底でカインは飛空艇から引き出された。
飛空艇の着陸したそこは、大きな建物の中であった。
カインは、バロン国以外に飛空艇がすっぽりと収まるようなドックの所在を知らない、しかもそこはバロンとは比較にならぬほどの広大なドックだった。
「ここはどこだ？」
「バブイルの塔―――。」
ゴルベーザは言った。
「俺をからかっているのか。」
カインは言った。
それはバロンの南西にあるエブラーナ大陸の、険しい山中にそびえると言う伝説の塔である。
山に分け入りその塔を見つけ、間近に見えながら、近づこうといくら歩いても決して近づくことができないと言う謎の塔。
「からかってなどおらぬ。」
おかしげにゴルベーザは言った。
ドックの一角の扉が開き、カインはその中へと連行された。
柱のない回廊が長く続いていた。
青いガラス天井の光が、鋼で出来ているらしい壁をなめらかに光らせていた。
微かに風が流れていた。
カインは周囲を見回した。
しかし、窓は一つもない…。
幾つかの鈍い銀色の扉をくぐり、控えの間程の小部屋に入ると部屋は動き、カインを上の階へと運んだ。
ゴルベーザはカインを、壁で幾つもの光点が明滅する薄暗い部屋へと導いた。
「ここに、人はいないのか？」
「生きた人間は、お前と私しかいないが、魔物達でも十分に用は足りる。」
ゴルベーザは言った。
最早、自らが魔物を率いていることを隠そうとはしなかった。
「こんな所に連れてきて、俺をどうするつもりだ。生かしておいてもろくなことはないぞ。」
「そう、急くな。あれを見るがいい。」
ゴルベーザが腕を振ると、飛空艇から付き従ってきた魔物の騎士達が、壁の光点に近づき触れた。
壁の一面が光り、光はやがて砂漠の風景に変化した。
騎士達が手を動かすと、砂漠の風景は様々に角度と位置を変えた。
その画面に、カインは見入った。
「止めろ。」 ゴルベーザが言った。
風景が止まり、その中心が大きく近づいた。
砂漠の中の点が大きくなり、それは大小の人影になった。
黒い鎧、暗黒騎士の鎧と子供の姿が、カインの目には確認出来た。
「やはり、生きていたな。カイン、あの子供はミストの村の子供であろう？」
「知らぬ。」
「よかろう。」そう言って、ゴルベーザは笑った。
「いずれにせよ、本人に聞けば分かることだ。―――バロン王に知らせろ。」
その命令に、魔物騎士達は部屋を出た。
「竜騎士カイン、ここは居ながらにして世界の様子を知ることができる。だが、この塔にはまだ不足しているものがあるのだ、それを集める手助けを、お前にしてもらいたい。」
「俺は、死んでも、貴様になど従わぬ。」
「殺して操るのはたやすい。だが、それではつまらぬ…。」
腕にかけたカインを戒めた鎖を鳴らしながら、ゴルベーザは冑をぬいだ。
あきれるほどに長い髪が、青ガラスの光の中で広がった。
蒼い目は銀色に光り、その浮世離れした容貌は、彼をこそ人ではないものに思わせた。
「私に従え。お前は見事な槍の使い手だ、私に従うなら、この地上でお前の望むだけの力を与えてやろう。誰もがお前にひれ伏すような力を…。」
「俺は、お前になど従わぬ。俺が忠誠を誓ったのは、かつてのバロン王だけだ。」
カインは言った。
「そう、お前ならば魔物になど忠誠は誓うまい。お前が会った王は魔物の化けた王だ。まことのバロン王は、城の地下で朽ち果てていよう。」
「貴様、陛下を！」
気色ばむカインを見下ろし、ゴルベーザは目を細めた。
「私が手を下したわけではない、命じはしたが―――。」
ぐいと、ゴルベーザは戒めの鎖を引いた。
その力に、間合を取ろうとしたカインの体はよろめき、ひざまずいた。
「近衛兵長ベイガンは不死身の体が欲しいと言った。そこで、再生能力のある魔物の体をくれてやったら大層喜んだぞ。お前は欲しいものはないのか？」
「ない。」カインは言った。
「気に入った。お前を、私の忠実なしもべにしてやろう。」
「何があろうと、俺はお前には従わぬ！」
「心まで、従えとは言わぬ―――。」
鎖を引き、カインの頭を押さえてゴルベーザは言った。
「何？」
「竜騎士カイン、お前を私のものにする…。」
「は…」
すっと、カインの中から意識が遠のいた。
床にうつ伏したカインの上に、重く鎖が落ちた。
体が動かない―――。
痺れているわけでも、手足が縛られているわけでもなかった。
いくら頭が命じても、指先一つ動かない。
それは夢の中で、何かから逃げようと必死に足掻いている時によく似ていた。
ゴルベーザは黒い鎧を脱ぎ、前の開いた長いローブをまとっていた。
出来上がった男の、丈高い見事な体躯はそれが共に戦う騎士であったら、カインでさえ惚れ惚れとしたことだろう。
「苦しいか？」
そう言って、ゴルベーザはカインの横たわる寝台に腰かけた。
「くぁ――」カインは口を開いた。
しかし、声も彼の自由にはならなかった。
「きれいな体だな。」
ゴルベーザは言うと、素裸のカインの体に指をすべらせた。
カインは眉を寄せた。
指のあとが、ひりひりと焼けるように痛い。
肩から胸、脇から股へ、ゴルベーザの指は絶え間なく移動してカインの体に幾条もの焼けるあとをつけていった。
本当には焼けてなどいない、精神の錯覚と思いながら、ちりちりと皮膚を焼いていくその痛みは、カインの顔を苦痛に歪ませた。
その表情に、ゴルベーザは見入る。
指を、首からあごへすべらせ、歯を食いしばるその唇に、ゴルベーザは口づけた。
激しい精神の動揺が、柔らかい唇からゴルベーザに伝わった。
上唇と下唇と、その尖る膨らみをゴルベーザは交互に吸った。
唇を開き、カインは激しく喘いだ。
赤い舌がのぞき、ゴルベーザは引かれるようにカインの呼吸を阻んで、その抵抗するものを自らの舌でからめとった。
動けぬ体が、固く強張る。
「始めは、戯れのつもりだったが…。」
唇を離し、息を止められた苦しさに涙のにじんだカインの顔を見つめゴルベーザは言った。
「何故だか、猛る…。」
そう言って、ゴルベーザは自分に向けるようにうっすらと笑った。
「いやであろう、カイン。だがお前の力は今は私の前では赤子と変わらぬ。竜騎士の誇りも、仲間への思いも、すべて剥いでやろう。そしてお前は、私の忠実な右腕になるのだ。」
カインは、その暗緑の瞳で激しくゴルベーザを睨んだ。
メデューサかバジリスクのように、一睨みで相手を石にする能力が無いことを、カインはどれほど恨めしく思っただろう。
「よい目だな。」
ゴルベーザはカインの顔にかかる黒髪をなで上げた。
「牢で会った娘も、私を睨んでいたな。あの娘の名は何と言うのだ？」
カインは言うまいと、歯をかみ締めた。
ゴルベーザは笑い、カインのこめかみに指を触れた。
「ローザ…。」 カインは言った。
驚きに、カインの瞳は見開かれた。
「大切な娘か。…だがあの娘は…、暗黒騎士セシルを思っているか―――。」
ゴルベーザはカインの心を見た。
カインの目は絶望の色を映した。
「嘆くことはない、カインよ。私に従えば、ローザもお前のものになろう。」
「ゆ――。」
「話してみろ。」
「ゆるさん。」カインは言った。
「俺を辱め、不当な力でノトスを傷つけ、王を亡きものにした……。貴様だけは絶対ゆるさん！」
「よかろう、その心を明日まで持っていられたらな。」
ゴルベーザはローブを脱ぎ捨てた。 獲物を食らう、銀のたてがみの猛獣にも似て、ゴルベーザはカインの体の上に伸し掛かった。
「やめろ！ ゴルベーザ！」
その抵抗する喉元に、ゴルベーザは食らいついた。
「離…せ…！」
声はすぐに奪われた。
動かぬ体は人形のように裏返され、四足獣の形を作られた。
獣と同じ唸りと、高い叫びを上げてカインは貫かれた―――。
∵ ∵ ∵
「ミシディアの水のクリスタル、ダムシアンの火のクリスタルは手に入った。
次はファブールの風のクリスタルを手に入れる。」
「はっ。」 カインは答えた。
「ファブールには暗黒騎士セシルも向かっているようだ。バロンの海兵隊は、やつを仕留めるのを失敗し、召喚士の娘も取り逃がしている。カイン、お前は私とファブールに向かい、セシルを討ち、風のクリスタルを手に入れるのだ。」
「はい。」
「よい子だ、カイン。」
虚ろな暗緑の瞳の竜騎士に、ゴルベーザは口づけた。
「苦しいか？」
「いいえ。」カインは言った。
「この呪縛は強い、容易くは逃れられぬぞ。」
「はい、ゴルベーザ様。」
その顔を見つめ、ゴルベーザは笑った。
瞳の奥にすべての自由を奪われ苦悶する、カインの姿が見える。
「誇りも、友愛も、忘れてしまえ。自ら苦しむことはない。」
その自らの心の奥底に封じられたカインを、ゴルベーザは銀色の瞳でじっと見つめた。
「……忘れられぬか、なぜだ？」
ゴルベーザは静かに言った。 『赤い翼』は黒いバブイルの塔を飛び立った。
エブラーナ大地の早い夜明け。 銀色の二つの月は、穏やかにその光を地上に降らせていた。