空は、どこまでも青かった。
気がつけば、いつも自分は北の空を見詰めていた。
樹海を越え海を越え、遥かあの空の下には故郷バロンの石の都がある。懐かしい町と家、仲間、王城と…。
カインは大きく息を吐いた。
一つの念を断ち切るのに、人間はこれ程時間を要するものなのだろうか、いや、自分のこの思いは幼い頃から長い年月をかけて育まれてきたものだ、どんなに厳しい試練を自分に課して日々を送っても、三月やそこらでその思いが消えるはずがない。
「ローザ…。」
ためらいがちに、しかしはっきりとカインは心を寄せていた少女の名を呟いた。
今はもうただの少女ではない、バロンの王妃となった美しい娘の名前。
兄と妹のように仲睦まじく、誰よりもそばにいたはずなのに、ローザは別の男を万世の伴侶に選んだ。
カインのライバルにして無二の親友、そして今はバロン国の王となった聖騎士セシル…。
あいつでさえなかったら、ローザを渡しはしなかった。
人懐っこい、眩しいような笑い方をするセシルでなかったら、ローザを渡しはしなかった。
いや、ローザが奴を選んだのでなければ―――。
「ローザ…。」
カインはもう一度呟いた。
虚しくなると分かっていながら呟かずにはいられなかった。
バロン王国議会が、満場一致で聖騎士セシルを新王に決定し――議会には竜騎士団を率いる隊長であるカインも出席していた――即位式と共に結婚式が行われることが決まった時、カインはバロンから遠く離れたミシディアの『試練の山』へ修行に出ることを心に決めた。
セシルが国王になることには何の不満もなかった。
人柄も強さも王者に相応しい、何よりセシルはこの世界を襲ったあの、長い悪夢のような日々を戦いに戦って地上を守り抜いた真の救世主なのだ。
セシルの戦いの中で、カインもまた悪夢になっていた。
カインは地上のすべてを焼き払おうと言う敵の手に落ち、敵に操られ、自ら親友セシルの命を狙い、セシルを慕うローザを誘拐したのだ。
操られていたとは言え、まったく自分の意識がなかった訳ではない、セシルを思うローザに自分の強さを誇示したい、そんな醜い欲望が敵に逆手に取られ利用されてしまったことをカインはよく分かっていた。
負い目だった。その負い目を振り払おうと、敵の呪縛を逃れた後は、仲間の疑いの目に耐えながら命を捨てて戦った。
そうして今生きているのは――あの最後の敵と戦った異世界、月の地下渓谷から生きて帰りえたのは――、裏切りを目の当りにしながらも自分を信じて共に戦ってくれた友セシルとローザのお陰だった。
それでも、カインは二人の結婚を祝福できなかった 。
そんな自分の心が、カインは許せなかった。
ミシディアの『試練の山』は広大な樹海に囲まれた、標高四千メートル級の険しい岩山である。
この山で、かつては暗黒のパワーを使う騎士であったセシルは、聖騎士に生まれ変わり敵に立ち向かった。
カインもまたこの山で心身を鍛え、並びなきと賞されながら若くして死んだ父、ハイウインドを越える竜騎士になろうと心に誓った。
父を越える竜騎士になれば、きっとバロンに帰れる。
幸せな二人を祝福できる心になるに違いない。
岩山には、そこに棲息できるだけの生命力の強い魔物が多く巣くっていた。また、魔物の餌食になった人間の怨念が固まった哀れな怪物や、蛇の半身をした男を惑わす女怪も、生きの良い息吹きに引かれカインの前に集まった。
すべては、カインの振るう槍のしずくになった―――。
喜ぶべきことか、セシルと共に最大の敵ゼロムスを倒したカインの槍術の前には、数多の闇の生き物などすでに敵ではなかった。
ならば強風の吹きすさぶ山頂で、ひとり孤独に耐え、瞑想し精神を鍛えるのみである。
彼は、吹きつける風に体を向け、修行僧のように胡座して瞑目した。
髪をなぶる風音は瞬時に遠のき、まぶたの裏に広がる闇は心の深淵へ扉を開き、一つの真理がきらめき上がる。
色即是空、空即是色、諸行無常、…愛ハ不変…。
つっと、ひとすじの涙がカインの左の頬を伝い落ちた。
所詮彼は若かった、今度誕生日が来ればやっと二十二才になるのだ。真理も、情熱の前では惨い宣告にしかならなかった。
岩山で瞼上げれば北の空、海のあなたに故郷あるかと…。
魔物達が恐る恐る見守る中、カインは悲愴な面持ちで風に向かっていた。
「ローザ…。」
本当は、こだまの返るほど大声で叫びたかった。
どうせこんな所では聞く者などいないのだから。
そうしたら、きっとすっきりしたにちがいないのだ。
もしかしたら、それで思いを振り切れたかもしれないのだ。しかしカインはそうしなかった、女の名を叫ぶなんて女々しいと思ったのだ。
そして彼は代わりにこう叫んだ。
「セシルのばかやろう！ 初等学校のときも兵学校に上がってからもあんなに俺が可愛がってやったのに！ 何で俺の気持ちがわからないんだ！ ちくしょー！」
木霊は返った、いくどもいくども。
カインは少し心が晴れた、これなら思いをふっ切れる日も遠くないかもしれないと気持ちが明るくなった。
と、その時―――。
どこからか、聞き慣れた懐かしい飛空艇のプロペラの音が聞こえた。
バッバッバッバッ、バラバラバララ…。
幻聴か？
そしてカインは己の目も疑った、崖下からゆっくりと彼の目の前に上昇して来るのはバロンの戦略用飛空艇『赤い翼』である。
バッバッバッ…。
山の頂では飛空艇を着陸させられるような余地はない、船は推進エンジンを止め、浮力プロペラだけを回し空中停止した。
夢ではなかった、四方八方ぐるり見渡せたはずの視界の半分を、空対地カノン砲を搭載し威嚇的な極彩色の目玉の図柄で船首を飾った『赤い翼』の船体が覆っていた。
「竜騎士カイン隊長。」
船べりに近衛兵が現れ慇懃に敬礼した。
「何事だ？」
「はっ。国王陛下のご命令でお迎えに参りました！」
「バロンに何かあったのか。」
「いえっ。セシル陛下のご治世に国内は日ごとに平安を取り戻しております。」
「それでは、私が戻る必要もあるまい。せっかくの迎えには済まないが、いましばらくは私はここで修行する。セシルにはそう伝えてくれ。」
「いえっ。陛下には是非にもカイン隊長にお戻りいただくようにとのご命令を受けて参りました。どうぞ、飛空艇にお乗り下さい。」
「ことわる――。」
カインは言った。
常の彼なら、もっと穏やかに返答したことだろう、飛空艇でここまで来た近衛兵の労も、命令を遂行できなかった時の兵士の苦悩もカインは思いやれたのだ、しかしカインは何か無性に腹が立っていた。
「陛下のご命令です。どうか…。」
「同じことを二度も言わせるな―――。」
そう言って、飛空艇に背を向けたカインは、近衛兵が甲板で素早く身を引いた気配に振り返った。
タンッ！
甲板を蹴って、黒い影がカインの頭上に飛んだ。
しまった―――。
影はカインの動きのくせを知っていた。
その手刀は右肩からカインの延髄を打った。
墨が落ちて来るように目の前が暗くなった。
「セシ…ル…？」
呟いて、カインは岩の上にくずおれた。
∵ ∵ ∵
一度悪夢を見ると癖になって、二晩も三晩も見てしまう、なんてこともあるのだろうか？
カインは、再び自分がこんな所に来ることになるなど思いもしなかった。
それとも、あの戦いはまだ終わっていないのだろうか？
月の地下渓谷でゼロムスを倒したのも、セシルとローザの結婚もただの夢で、自分はまだゴルベーザの虜なのだろうか？
そこは、『試練の山』のあるミシディアから西へ海を越えたエブラーナ大陸の山中にそびえる『バブイルの塔』の一室だった。
戦いのはじめ、偽バロン王の謀略でセシルと共にミストの村に火を付け、幻獣タイタンの襲撃を受けて倒れたカインは、セシルに代わるバロン飛空艇団の新隊長を名乗る男、ゴルベーザに助けられた。
そしてバロンに戻ったカインは、罪のない人々を殺すバロン王の非道を非難し投獄された。
その夜、カインはゴルベーザのおとないを受けた、牢を出され飛空艇に乗せられ、見知らぬ建物に導かれた。
「竜騎士カインよ、お前はバロン屈指の騎士と聞いている。私に従うならばお前に最高の力をやろう。この世界でお前に従わぬ者などないような力を―――。」
そう言って兜を脱いだゴルベーザは、威圧感に満ちた銀髪の美しい男だった。
その甘い誘いをカインは拒絶した。
そしてカインはゴルベーザの魔力で体の自由を奪われ、抵抗する心を封じられ、虜にされた…。
ゴルベーザこそ、偽バロン王をも操る真の黒幕であり、その目的は世界に散る至宝八つのクリスタルを手に入れ、月に眠る強大な力を手に入れることだった。
ここ『バブイルの塔』は、そのゴルベーザの最大の牙城となった建物である。
そして、今カインが意識を取り戻した部屋は…。
あろうことかゴルベーザの豪華な寝所、数多の忘れたい思い出の残る部屋であった。
「気がついたね、よかった。」
ゴルベーザと同じプラチナブロンドの美青年―――それもそのはずである兄弟だったのだから―――、現バロン国王セシルがにっこりと寝台のカインをのぞきこんで言った。
戦いは終わっている、セシルの微笑がその証だった。
「誰がなぐったんだ？」
カインは不機嫌に言った。
「ごめんよ、こうでもしなきゃ君は来てくれないから。」
「何の用だ？」
「ああ、向こうに食事を準備させてるから、シャワーを浴びておいでよ、場所は知っているだろう？」
いやなシチュエーションだとカインは思った、しかし穏やかな微笑を浮かべて話すセシルには反論の余地もない。
エブラーナの人間らしい料理人が、海産物を豊富に使った新鮮な料理の数々を披露した。
エブラーナの特産らしい香りの強い透明な酒、白く濁った粒のある酒、いずれも料理によくあって、カインは舌鼓を打った。
「やせたね…。」
「ああ、試練の山にろくな食い物はないからな。」
「背も高くなったね。」
「そうか？ お前も伸びたろう？」
うまい食事に体が喜ぶ、まだ修行は終わっていないのだから栄養は取れるうちに取っておかなくてはいけない、カインは黙々と食べた。
「まだ、バロンに戻ってくれる気はないんだね？」
「修行を始めてたった三つきだ、まだ俺は願う所に到達していないのだ。」
「君ほどの騎士がそんなことを言ったら、バロンの騎士がみんな出奔してしまうよ。帰ってきてはくれないか？」
「大事があればすぐに戻る、それまでそっとしておいてくれ…。」
「ローザも寂しがっている。」
「……」
「君にはいろいろ相談したいようなのだ。」
「…お前も、シドもいるだろう。それともお前はローザを泣かせるような事をしているのか。」
「してないよ。でも君は、ローザにとってお兄さんみたいなものだし…。」
ぴくっと、カインは己の額がひきつるのを感じた。
「――うまい食事だった、山へ送ってくれるか。」
そう言ってカインは席を立った。
「カイン…。」
セシルは顔を曇らせた。
「しばらくぶりに会えたのにそれはないだろう。今夜ぐらいは一緒にいてくれよ。僕だって、国王になって、慣れないことばかりで、相談したいことが沢山できて、勿論シドは良いアドバイスをくれる。でも、君に聞きたいことだって沢山あるのだ。あの戦いを一緒に越えてきた君にだからこそアドバイスを求めたい事もあるのに、君は僕の戴冠式まですっぽかして試練の山に行ってしまったんだ。何か僕の事で、気に入らないことがあるのなら言ってくれ。僕は、君に嫌われるのが一番辛いよ……。」
そう言って、セシルはうつむいた。
カインは胸が痛んだ。
自分がセシルの戴冠に立ち会わなかった事を、セシルが気に掛けるだろう事はカインは分かっていた。
それでもその後に行われる婚儀を見たくなくて、カインは即位式の前にバロンを出てしまったのだ。
「すまん――。」
カインは言った。
「お前のことが気に入らないんじゃない、俺は自分に許せない事があって。そんな自分ではお前の戴冠に立ち会う資格はないから、試練の山に行ったんだ。」
「うん、いいよ。僕が国王になることに君が賛成してくれたことは知っているし、人には色々あるものね。」
「セシル…。」
「送っていくよ、試練の山へ。強引なことをしてごめんね。君が納得してバロンへ帰って来るのを待ってるよ。僕のことを嫌わないでおくれね…。」
「セシル、俺がお前のことを嫌うわけがないだろう。」
「いいんだ。」
セシルは首を振った。
「山で叫んでたじゃないか、セシルのばかやろーって。」
カインは言葉に詰まった。
「あ…、あれは言葉のあやだ。」
「いいんだ、行ってくれ。飛空艇はドックに入っているから、兵士に言えばすぐに発進する。」
「セシル―――。」
テーブルで、青年はうつむいていた。
肩より少し長い髪が、その横顔を寂しげに覆っていた。
「悪かった。」
カインは椅子にかけた。
「俺はお前のことを無二の親友だと思っている。本当だ、操られていたとは言えお前の命まで狙った俺を、お前は信じてくれた。そのお前の心に俺はどれほど救われたか知れない。だというのに、お前の相談にも乗ろうとせず、山へ戻るなどと言って、すまん。」
「それじゃあ、今日は一緒にいてくれるんだね。」
「ああ。」
「ありがとう。」
セシルは顔を上げてにっこり笑った。
可愛い…。
これだから放って置けないのだ。
国王でさえある一人の立派な男だと言うのに、この可愛らしさはなんだろう？
これだから人心も一つになる、王者の資格にはこんなことも必要なのかもしれない…。
「お前、子供の頃と変わっていないな。」
「君も可愛いよ、カイン。」
「え…？」
かくして、悪夢はやって来る―――。
∵ ∵ ∵
「月が、一個になっただろう？」
「ああ。」
二人はバルコニーから夜空を見上げていた。
二つあった月が一つになって、夜空は暗くなった。
代わりに星のきらめきがよく見えるようになった。
「即位式の日にどこからか兄さんの声が聞こえてね。さよならって…。その晩から月が一個になっていた。後から天文台が連絡をくれて、ちょうど僕が兄さんの声を聞いた時、あの月が僕たちの星を回る軌道を外れて、宇宙の遠くに飛んで行ったって。」
「そうか…。」
カインを虜にし操ったゴルベーザ、セシルの実の兄であったゴルベーザもまた、月の地下に封印されていたゼムスと言う男に操られていたのだった。
太古、故郷の星を失いこの青い星を訪れた異星の人々は、この星の進化を待つべく彼らの船を月に変え、時が来るまでの長い眠りに着く事を決めた、しかしゼムスは眠ることをよしとせず、地上の生き物を焼き払い自らの星にすることを主張し、仲間の手で永遠の眠りに封印された。
だがその怨念は長い時をかけて地上に降り、自分の封印を破らせるべく、月の民の血を引くゴルベーザの心を操った。
月の民の長フースーヤの力でゼムスの呪縛から逃れたゴルベーザは、自らもゼムスに戦いを挑み、そしてすべての戦いが済んだ後も地上の人々への己の行いを恥じて月へ残り、月の民と共に眠ることを選んだ。
「この星のほかに、行く先を見つけたのだろうか？ 僕はバロンに月の民の町を建設しようと思っていたのに…。」
ゴルベーザとセシルの父はクルーヤと言った。
月の民の長フースーヤの弟であり、この星に憧れ幾度も調査に降りる内、遂にこの星の娘と恋に落ち、そしてこの星で死んだ月の民だった。
だから、ゴルベーザとセシルの体の半分は月の民の血が流れていたのだった。
「行く先がなければ、動きはしないだろう。」
カインは言った。
「そうだね。」
セシルは遠く夜空を見上げて言った。
天涯孤独のみなし児だった自分に兄がいて、それが極悪非道の宿敵と思っていたゴルベーザだと知った時、セシルは喜びと憎悪の間で判断を失った。
たとえ操られていたとはいえ、多くの人々を苦しめ命を奪った男、そしてセシルはその体に剣を向け幾度その命を断とうと必死になったか…。
兄弟と知った後も、交わしたのはただ別れの言葉のみだった。
「カイン、兄さんはどんな人だったの？ 君は兄さんのそばでみんな見たんだろう？」
「あ…ああ。」
カインは答えた。
「どんな人だったのか話してくれないか？ 僕は戦いの間じゅうずっと、兄さんを沢山の人を殺し君やローザを苦しめた許せない敵としてしか見ていなかったから…。」
「………。」
「カイン。」
「…背は、高かったな。」
「うん。」
「いい体をしてたな、大剣を三本ぐらいまとめて片手で振れそうな…。」
「うん、その上、黒魔法も白魔法も召喚魔法も使えたよね。」
「…ああ、それで俺は体の動きを止められて、洗脳されたんだ。」
「洗脳って、どんな風に？」
「―――。」
「ごめん、嫌な思い出だよね。…兄さんの、髪はどんな色だった？」
「お前と同じだ、顔もよく似ている。あと十年もしたらそっくりかもしれないな―――。」
「そうか、やっぱり兄弟なんだね。」
セシルはまた空を見上げた。
銀の髪を金色のサークレットで留めている。
月から見た、この星のように青い瞳。
繊細に作られた鼻すじ、理性と優しさをもった口唇。
似ている…、やっぱり似ている…。
カインはセシルの横顔から顔を背けた。
「どうしたんだい、カイン。」
「なんでもない。」
「中へ入ろう、エブラーナの風は湿気が多いね。」
壁のスイッチで、窓が閉じられるとそこは完全な壁に変わってしまう。バブイルの塔は、月の民がこの星を調査するために作った基地、太古の超文明の遺産だった。
炎でない灯りが、壁全体から部屋を明るくする。
「今日は一緒に寝ようね。」
セシルは無邪気に言った。
「昔みたいに寝よう、よく竜舎のわらで一緒に昼寝したものね。」
「ここで、か？」
「使えるようになっていたのはここだけなんだ、兄さんもこの部屋で寝ていたんだろう？ ここのベットが一番大きいんだよ。」
そう、確かにこの寝台は大の男二人が、横になっても余裕のよっちゃんだった。
「ああ…。」
重く、カインは答えた。
何故、よりにもよって……。
セシルはにこにこと、下着になり寝台にもぐり込んだ。
「早くおいでよ。」
カインはうつむいた。
「どうしたんだい？」
「………。」
ゴルベーザに操られていた、それはもう過去のことだった。ゴルベーザはもういず、ゴルベーザによってカインが受けた数々の屈辱を知る者も、もうどこにもいない。
後は、自分さえ忘れればいいことだった。
しかし、カインの傷は深かった。
いったいその寝台で、どれほどの辱めを受けたことか…。
それは、口が裂けてもセシルには言えないことだった。
あれほど慕っている兄が、男に手を出す変態だったなどと知ったら、セシルはどれほど傷つくだろう――。
言ってはならぬ、気づかれてはならぬ事だ。
カインは目をつぶり上着を脱いだ。
眠ってしまえばいい、明日は山へ帰れるのだ。
今だけの辛抱だ。
そして、毛布にくるまった。
材質のわからぬ毛布の、その暖かくなめらかな感触は、そこにゴルベーザの手で一糸まとわぬ姿で横たえられた記憶をいやでもカインに思い出させた。
カインは歯を食いしばり、ぎゅっと目をつぶった。
「どうしたんだい、カイン。」
「なんでもない―――。」
「さっきから、そう言うね。何か僕に隠しているね。」
「何も隠していない。」
「それならこっちをむけよ。」
カインは言われる通り振り返った 。
間近にセシルの顔があった、セシルはじっとカインの暗い色の目を見つめた。
「兄さんは…。」
「話すな、寝よう。」
「僕に言えないような事があったのか？」
「声まで似ているな…。」
セシルは、再び背中を向けたカインを見つめた。
「僕は、兄さんと手を握る事もできなかった。たった一人の肉親に会えたというのに、その兄さんのことを知っているのは君だけなんだよ、カイン。君には辛いことだったろう、でも僕は兄さんのそばにいれた君が少しうらやましいんだ。」
うらやましがられても、嬉しくないことも世の中にはあった。
「カイン、好きだよ。」
「あ？」
「兄さんは君にひどいことをしてしまったけど、僕を嫌わないでくれよ。」
「お前と、ゴルベーザは違うだろう。」
「うん。」
そう言ってセシルは、カインに体を寄せた。
「うわっ！」
人肌の感触にカインは飛び上がった。
「カイン！ どうしたんだ？」
「なんでも―――。」
「嘘だ！」
セシルは起き上がり決然とカインを見た。
「何を隠しているんだ！ 話せ！」
セシルはカインの両腕を掴みのしかかって言った。
カインは狼狽した。
友を怒らせる気などなかった。
青年は頬を上気させ、挑むように自分を見ている。
「離せ、セシル。」
「いやだ。君が話すまで、離さない。」
「何も隠していない…。」
「バロンの竜騎士は嘘をつくのか？」
「セシル…。」
どうしたらいいのだ…。
セシルの目から視線をはずせないまま、カインは押えつけられた両手の拳を握りしめた。
「抱かれたんだろ、ゴルベーザに…。」
「な――。」
一瞬セシルの顔が遠くなった。
「なに…。」
「抱かれたんだろ、兄さんに。」
「セシル―――！」
「僕が、分からないとでも思った？」
頭の中で割れ鐘が響いていた。
「君、可愛いもの。僕とゴルベーザがそっくりなのなら、君を虜にして手を出さない筈はないよ。」
やはり悪夢を見ている、カインは思った。
「少し寝ていいよ。」
セシルが言った。
激しい睡魔が、カインを襲った。
∵ ∵ ∵
ゴルベーザ―――。
死を呼ぶ忌まわしい呪文のように、人々はその名をつぶやいていた。
虐殺と破壊を以て世界に君臨する男、魔物を従え今またクリスタルの力で世界を破滅に導こうとする者、暗黒の使者ゴルベーザと…。
「もうじき、月に封印された力が手に入る。月への道が開いたのはお前のおかげだ。カイン、褒美をやらねばな。」
玉座に身を沈めたゴルベーザは言った。
「ローザ…は…。」
「欲しければ奪ってこいと言ってやりたいが、もう時間がない。あきらめるのだな。」
ゴルベーザを見上げる、焦点の合わぬカインの光彩が締まり瞳の色を増す。
「あきらめろカイン、お前はローザに愛されてはいないのだ。」
カインの瞳が、屈辱と怒りに暗緑の色を濃くする。
しかしそれでも、ひざまずくカインの体は跳ね起きることもできず、その裸体をゴルベーザの手に愛玩されていた。
「愛してやろう、可愛がってやろう、可哀相な男よ…。」
ゴルベーザはカインを引き起こし、その長身を膝の上に抱き上げてささやいた。
「や…め…ろ。」 カインは言った。 「そんな下らぬ事は言うな。ローザ…だ。いとしい女の名を呼ぶがいい…。」
ゴルベーザは言った。
きつく、カインは口を閉じた。
彼は、そうしたつもりだった。
「ローザ…。」
聞こえた声は、彼の身をすくませた。
自分の声だ。
「ローザ…。」
やめろ、そう叫んだはずの声も、女の名前に変わっていた。
「お前は可愛い。愛、憎しみ、悲しみ妬み、幾つもの生きた感情がお前の中にはある…。私の心はそれほど生きてはいない、まるで凍りついているようだ。カイン、お前を抱くとお前の苦しみが、少しこの氷を溶かすようだ。」
ゴルベーザはうっすらと、春の月のように笑う。
二度も、ゴルベーザに操られ友を裏切った―――。
すべては自分の心の弱さがゆえ―――。
もはや誰も、俺のことなど愛してくれぬ―――。
ゴルベーザの長いプラチナの髪は、部屋の灯りを受けていつも青い光を放っていた。
鎧をまとうよりも格段に王者の風格を増すその裸形。
澄んで虚ろな瞳、脳に染み入る声の響き…。
「愛してやろう、可哀相な男よ…。」
手も足も、夢の中であがいているようにカインの意思には応じない。
「ゴルベーザ…さま…。」
舌は、願いもしない言葉を紡ぎ出す。
声も体の自由も奪われ、獣のように唸りながら、カインはゴルベーザの剣を受けた。
虜にされた間、それは一回や二回ではなかった…。
「カ・イ・ン―――。」
眠い目を開けると、セシルがのしかかったまま自分を見下ろしていた。
そっくりだ、ゴルベーザの虜になっている間なぜ自分は二人が兄弟だと気づけなかったのだろう。
「何をしているのだ、すっぽんぽんで。」
「君もだよ、カイン。」
そう言ってセシルは体を動かした。
股と、あらぬところが触れ合って、カインは悲鳴を飲み込んだ。
「感じやすいね。」
「セシル―――。」
「僕も君をもらう、兄さんだけなんてずるいよね。」
「何がずるいんだ？」
「みさおだてするかい？」
「誰が！」 「じゃあいいよね。」
「よくない！」
「どうして！」
どうしてって…。
カインは頭の中が真っ白になるのを感じた。
「やっぱり僕が嫌いなんだね。」
「違う。」
「それならどうしてやらせてくれないの。」
「…ロ、ローザに悪いと思わんのか！」
「これは君と僕との問題だよ。」
そう言って、セシルはカインにおおいかぶさった。
カインの浅黒い肌はとても美味しそうに見える、ローザが白い砂糖菓子ならカインはジンジャーパンか肉桂を練り込んだクッキーのようだ。
「兄さんによく仕込まれたみたい、やけるね―――。」
耳の後ろに唇を寄せてセシルは言った。 カインは全身に鳥肌が立った。
「セシル、だめだ。」
「任せておいてよ、よくしてあげるから…。」
声音はもう、少しもやわらかくなかった。
「セシル。」
「抵抗したら、だめだよ。」
そう言ってセシルは肩を押さえようとしたカインの左手を取るとその指の上に舌を滑らせた。
「う…。」
「素敵だね、その眉を寄せた顔。そそるな…。」
「セシル…。」
湿った左手をカインは握りしめた。
「君が僕を殺そうとしたとき、僕は訳が分からなかったけど、親友の君に殺されるなら本望だと思った。でも君は僕のことなんてなんとも思ってなかったんだよね。」
「そんなことはない！」
「―――そうかな。」
「あの事を怒っているならどんな罰でも受けよう、俺は万死に値する事をしたのだ。」
「あれは運命だったんだよ、カイン。あれでローザをゴルベーザに奪われ、仲間とも離れ離れになりミシディアの試練の山に行かなかったら、僕は暗黒騎士のままゴルベーザに殺されていたかもしれないんだ。」
「では、俺を許してくれるのか？」
「君に殺されるなら本望だと言ったろう、なのに君は兄さんと…。」
「それは、ゴルベーザが勝手にやったことだ、俺は…！」
「いいよ、君はいま僕の腕の中にいるんだから。」
「セ――！」
サラリと銀髪が揺れて、白皙のセシルの顔が迫った。
理性的に結ばれたその唇が、カインの唇に重なり、カインは己が蒼白になるのを感じた。
熱い体が、ぴったりと重なった。
セシルは楽しげに、指と体と下肢でカインを愛撫した。
「くうう、うっ。」
カインは歯を食いしばり耐えた。
「素敵だ。」
と、セシルは首から胸へと舌を泳がせた。
「ああっ…。」
カインは喘いだ。
それで、長いことセシルは激しく上下するカインの胸で唇を遊ばせた。
「もつね、ゴルベーザに可愛がられた証拠だね、慣れてなきゃとっくに行っちゃうのに。」
セシルは体を起こし、カインの膝を開いて言った。
カインは唇を噛んで横を向いた。
「自分でやっちゃだめだよ…。」
そう言うとセシルは、カインの手を押さえた。
「セシル、だめだ…。」
「恥ずかしがることないよ、行っていいからね。」
「セシル！」
股間をセシルのプラチナブロンドが覆った。
温かい感触に包まれて、カインは息を荒げた。
「やめろ、セシル！」
「…やめない。」
三度も歯を立てられて、カインは激しく抵抗する事をやめた。
「セシル…。」
「行っていいんだよ、カイン。」
「だめだ…。」
「……。」
「…セシル。」
「………。」
「…セシル！」
「頑固だね、君も。」
「セ…シル！」
「……。」
「やめろ！ やめるんだ！ セシル―――。」
「やめたよ。」
両膝を大きく開かせたまま、セシルは顔を上げて言った。
「うっ。」
内股にじっとりと汗がにじんでいた。
つま先が、焦れるようにシーツを掻いた。
「どうしてほしいか、言ってごらん。」
「意地の悪い奴だ。」
「そう、意地悪って、ローザにも言われるよ。でも、嬉しそうなんだ。」
「―――。」
「あれ？ ごめんよ。」
抗議の力の弱まったカインにセシルは言った。
「じゃあ、僕が先にいくよ、こんなだから…。」
「セッ！！」
抗議する間はなかった。
「うっ、うわあぁっ！」
カインは叫んだ。
緊張し抜いていた所に、それはあんまりだった。
「くっ。」
セシルも呻いた。
固いに違いない、それでもセシルはつきすすんだ。
「セ、セシルっ―！」
「あ…、いいよ、カイン…。」
首をのけ反らせ、セシルは言った。
「…やめ…ろ…！」
体を揺らされて、カインは身をよじった。
ゴルベーザから解放され、忘却の底に沈みかけていた感覚が、ざわざわと体に蘇ってくる。
「やめろ…セシル！」
苦悶するカインの顔を見下ろし、セシルはゆっくりと首を横に振った。
「君は素敵だ、感じる？」
「あっ…」
下肢から胸へ、さわと撫で上げられカインは、弓なりに背を反らせた。
「いい…。」
セシルは甘い声を上げた。
その声音にカインは総毛立った、誘惑に満ちた感覚がじわじわと体を包み始めた。
「セシル、頼むからやめてくれ！」
「どうして？」
誘惑に満ち満ちた声でセシルは言った。
「体はいいって言ってるよ。」
「セシル！ やめてくれ、もう！」
「……。」
「セシル…！」
「やめない。君が僕のものになるまでは。」
「俺たちは友ではないか。」
「じゃあ、バロンに帰ってきてくれる？」
「それは…。俺はまだ修行が…。」
「何を修行するの？ 君ほどの騎士は世界中探したってもういないのに。」
言葉と指が、カインの体をくまなく撫で回し、カインは喘いだ。
「もう少し時間をくれ…、俺は一人で考えたいのだ。」
「何を？」
「セシル！」
「考えたってしょうがないこともあるんだよ、カイン。君は三ヵ月もずっと考えてたんだろう、それで答えが出ないなら試練の山にいたって意味ないよ。」
セシルは言った。
「ねえ、バロンへ帰ろうよ。」
「だめだ、俺は…。」
カインは体を震わせながら言った。
「お前たちを祝福できない。心のせまい男なんだ…。竜騎士の資格もない。」
「好きだよ、カイン。祝福なんていらないよ。僕は君に側に居てもらいたいんだ。」
巧みな指先をカインの股間に忍ばせ、セシルは言った。 カインは呻いた。
「いい声だね。帰ってきてくれるね？」
「ううっ…。」
「カイン…。だめだよ。」
じれったげに股間に差し伸ばされたカインの手を、セシルは抑えた。
「僕の邪魔をした罰だ、もう少し我慢するんだよ。」
「セシ…ル！」
深く足の間に割り込まれる感触に、カインの体は淫らに震えた。
「セシル、やめてくれ、セシル！」
カインは喘ぎ、逃げ道を捜そうと叫んだ。
「誰を呼んでいるのだ？ カイン。」
「え？」
「私だ、お前を抱いているのは…。」
「ゴルベーザ…様？」
「私だ、カインよ。」
ぐいっとカインは体を起こされ、抱き合うようにして腰を上下された。
「あ…あ…、ゴルベーザ…さ…ま。」
「誰を呼んでいるの？」
「なに？」
「やっぱり、兄さんのほうがいいんだ。」
セシルが言った。
「違う！」
「何が違うのだ？ カイン。」
それは、ゴルベーザの声音だった。
「やめろ！」
「よい子だカイン。お前は私のものだ。」
「違う！」
カインは相手をもぎ離そうとした、しかし甘い官能の波が打ち寄せる体は思い通りの力が入らない。
「おとなしく抱かれるがよい、カインよ。」
「ゴルベーザ様…。」
「セシルだよ。」
不服そうな声がした。
「やめろ！ セシル！」
「誰を呼んでいるのだ？」
「どっちなんだよ！ ちくしょうー！」
カインは情けなくなった。
「わからないの？」
「セシル？」
「そう、でも兄さんも来てるんだ。」
「来ている？」
「今、我々の船はアンドロメダ星雲に向かっている。」
おごそかな、ゴルベーザの声がした。
「長い旅なので、月の民は相変わらず眠っている。フースーヤも眠りの番人を私に押しつけて寝てしまった。この星船で目覚めているのは私だけなのだ。」
「ゴ…。」
「それで、セシルにテレパシーを送ったら来ても良いというので、思念だけだが、お前を楽しみに来たのだ。」
「そんな…。」
「さすがに兄弟だけあって、テレパシーもベストフィット、感度良好だ。」
「わかった？」
セシルが言った。
「そんなことが…。」
「二人分の愛だよ、カイン。」
「そんな…。」
「バロンに帰るね。必ず君を連れて帰るって、僕ローザに約束したんだ。」
そう言ってカインの唇に、セシルは深く口づけた。
「愛してやろう…。」
「やめて…下さい、ゴルベーザ様。」
「もう、らくにして上げるね。」
「セ…シ…ル…、あっ……。」
無数の星が、流れて散った。
次は、長距離テレポートを身に付ける―――。
待ってるよ、兄さん―――。
夢の彼方で、兄弟の会話が聞こえた。
∵ ∵ ∵
「お帰りなさい。カイン。」
バロン王妃となったローザは前にも増して美しく、光り輝いていた。
「隊長！ よく戻ってきてくれました！」
竜騎士達は隊長の帰還を心から喜んだ。
「飛竜たちは元気か。」
「はい！」
三月ぶりに戻ったバロンの、人々は皆ほがらかで温かく、カインは心を癒された。
「無理を言ってごめんなさい、カイン。でも明日の私のバースディ・パーティーにはどうしてもあなたに出席して欲しかったの、だって毎年一緒にお祝いしてくれたでしょう。なのに二十歳のお祝いにあなたがいないなんて、寂しくて、セシルに無理を言ってしまったの。」
「ああ、いいんだ、ローザ。」
カインはクールに微笑した。
「ありがとう、カイン。」
ローザの微笑みは太陽のようだ。
そうだ、俺の願いはこの微笑みを守ることではなかったか―――。
カインは思った。
「まだ、ふっきれちゃおらんのだろう？」
飛空艇整備隊長シドが、そっとカインに言った。
「ああ。」
カインは答えた。
「わしも、セシルとローザに頼まれると弱くてな。お前さんを少しでも早くバロンに連れて来れるように、また『赤い翼』をチューンアップして速力を上げたんじゃよ。」
「たいした早さだった、振動も大分減っていたな。」
「そうじゃろ、そうじゃろ。」
ほくほくと、飛空艇の発明者は言った。
「セシルは、お前を国王第一の騎士に任命すると言って王の間の隣に、お前の部屋を作らせおった。ローザのことはまだ苦しかろうが、お前を操ったゴルベーザはもうおらんし、わしもお前のことは信じとる――。」
前王に拾われたみなしごのセシルを、わが子のように可愛がってきたシドは重々しく言った。
「カイン、新しい君の部屋に案内しよう。」
セシルが城の奥でてまねいた。
「君には、竜騎士隊長の地位とともに、ナイト・オブ・キングの称号も与えようと思う。受けてくれるね。」
「はい、陛下。」
「セシルでいいよ、カイン。」
「お前はバロンの王だ、人前ではそうは行くまい。」
「君ならそう言うと思ったよ、部屋ではセシルと呼んでくれよ。そのために作ったんだから。」
「……。」
バロン国王聖騎士セシルは、夜ごと親友と世界について語った。
時折、激論におよんでか多数の語らうごとき声が、王の間から聞こえると言うが、セシル王の治世は国と世界に平安をもたらし、人々から尊ばれた。
一人、誇り高き竜騎士カインの、苦悩を知るものは誰もいなかった―――。