無数の星々がきらめく空中に、巨大な岩石群がどこまでも無数に浮かんでいる…。
『青き星の民は、まだ未開の状態です。しかし、彼らは実に旺盛な探究心や向上心を持っています。我々が一万年かかった文明を彼らは、おそらく千年レベルで為し遂げるでしょう。彼らが我々と同等の意識レベルに進化するまで、我々はこの宇宙船を核に衛星軌道上にもう一つ月を作り、そこでコールドスリープで待つ事を提案します。』
『我々の月の軌道と重力場を安定させるため、青き星に八個のクリスタルを設置しなければなりませんが。』
『それくらいは、青き星の民も許してくれよう。』
『何を悠長な―――。我々は母なる大地を失ってしまった。一刻も早くあの星に、我々の世界を作るべきです。』
『ゼムス、青き星の民は我々と同じ人間だ。未開の彼らの前に今我が三万の民が降りれば、どのような混乱が起こると思う。』
『そのような未開の民など焼き払ってしまえばいい、青き星には我々が住むのです。』
風も吹かない灰色の荒野、ただ銀色の星空の下に男が二人いる。
星を渡る船を造る彼らでも、水と緑のあふれる天体を造ることは不可能だった。
『ゼムス、このままでは君は無期の冷凍睡眠に封印されてしまう。この前の発言を取り消してくれ。』
『余計なお世話だ、クルーヤ。お前は明日、青き星に調査に降りるのだろう。私と話なぞすると危険分子だと疑われるぞ。』
『ゼムス。考え直してくれ。君ほどの頭脳を、むざむざと無期刑にするなど…。』
『私には私のやり方がある。せいぜい気をつけろ、クルーヤ。』
『ゼムス？』
色とりどりの光を放つ鯨。
巨大な鯨型の船が青い星へと降りて行く。
『ゼムス、スリープルームへ降りる時間だ。』
『はい。長老。』
私を侮るがいい…。
どんな眠りも、私の思念を阻むことはできない…。
気をつけろよ、クルーヤ。
私は青き星を焼き払い、すべて私のものにする。
∵ ∵ ∵
ただの雑魚と思ったものが、随分力をつけたものよ―――。
きらめき上がるクリスタルの光の中で、彼は微笑んだ。
ドワーフ王ジオットの城で、光の騎士と戦って切り落とされた右腕が、見る間につながり再生して行く。
それほどにクリスタルの力は強大だった。
「部屋へ行くぞ。」
差し出されたローヴをまといゴルベーザは言った。
「はい。」
竜の鎧をまとった騎士は、従順に答えた。
「かぶとを取れ。」
「はい。」
騎士はためらいなく、目深な竜のかぶとを脱ぐ。
精悍だが、まだ幼い感のある青年の顔がのぞく。
「遠い目だな。」
ゴルベーザは言った。
竜を駈って飛空し、空を戦場とするバロンの竜騎士。
その中でも希な、竜の言葉を解する、真の竜騎士。
しかし、まとった竜の鎧の中で、彼は虚ろだった。
あごを掴んで瞳を覗き込む。
焦点のあわぬその闇色の奥に、かすかに、わずかに光る色がある。
深い、精神の奥に縛りつけられた、青年の本当の生きた心。
「苦しいか？ カイン。」
そう言ってゴルベーザは、カインを引き寄せた。
騎士の体は抵抗なく、ゴルベーザのローヴの胸による。
薄く開いた口唇に、ゴルベーザは己の唇をかさねた。
くぐもった呻きが、仰向いた竜騎士の喉に響く。
「あのローザと言う白魔道士、まだものにしていないのか？ どうすればよいか、教えてやったであろうに…。」
騎士の体が微かにこわばった。
「その竜騎士の鎧が、お前を縛っているのだろう。」
ゴルベーザは笑った。
「来い、カイン。この体を再生させたクリスタルの力をよく見せてやろう。」
世界は、息をひそめていた。
目前にその姿を見せながら、決して近づくことの出来ない伝説の巨塔。
神の門、バブイルの塔が復活した。
ゴルベーザ―――。
死を呼ぶ忌まわしい言葉のように、人々はつぶやいた。
黒い異様な甲冑をまとい魔物を従え、虐殺と破壊を以て世界のクリスタルを奪い、バブイルの塔を復活させた者。
暗黒の使者ゴルベーザと。
「もうじき、月から巨人が下ろされる。その巨人で私はこの世界を焼き尽くす。月への道が開いたのはお前のおかげだ。カイン、褒美をやらねばな。」
広い鋼の部屋の、中央の玉座に身を沈めゴルベーザは言った。
灯りはガラスのような光る壁で、暖かな炎は何処にもなかった。
剣も槍もその手を離し、竜の鎧は卓の上に積まれ、カインは玉座に向かう。
「よい子だな。よく最後のクリスタルを手に入れてきた。封印の洞窟の魔物達は手強かったであろう…。」
薄いローヴをまとい、その肉体があらわであるほど、ゴルベーザの丈高く厚く、引き締まった体躯は王者の脅威と風格を増す。
白魔道、黒魔道を修め、幻獣召喚の技までも持つゴルベーザは、世に言うなら賢者と尊ばれるはずの男である。
しかし世界中の魔道士を掌握する、魔道士の里ミシディアの長老さえ、彼の存在を知りはしなかった。
それは、彼が誰の手も知識も借りず、自ら自然の秘密を解き、精神を鍛えて、すべての術を体得したからである。
鋼の床に体の熱を吸われるまま、カインはひざまずいた。
騎士の額にかかった髪を掻き揚げて、ゴルベーザの手は執拗なほどにカインの暗い色の髪をなでた。
「ローザ…は…。」
カインは言った。
「欲しければ奪ってこいと言ってやりたいが、もう時間がない。あきらめるのだな。」
カインの焦点の合わぬ光彩が、微かに締まり瞳の色を増す。
「あきらめろカイン、お前はローザに愛されてはいないのだ。」
ゴルベーザは言った。
カインの瞳の暗緑の色が増す。
それでも、カインの体は跳ね起きもせず、変わらずゴルベーザの手に愛玩されていた。
「愛してやろう、可愛がってやろう、可哀相な男よ…。」
その片手をつかんで、ゴルベーザはカインを引き起こした。
長身の騎士を、ゴルベーザは子供のように膝の上に抱き上げる。
「憎め、お前の恋人を奪った男も、お前を愛さぬ女も憎め、世のすべてを憎め、そうすれば楽になる。人を憎むその気持ちだけを愛すればよい、カインよ。」
青い灯りの色を反射して、けむりたつようなプラチナの髪を頭から背へいただいた男は、脳髄へ痛く染み込むような声で言った。
暗緑の瞳の焦点はぼけて、カインはその頭をゴルベーザの肩へ傾けた。
ゴルベーザはうっすらと、月のように笑った。
額に口づけると、空いた手が肩と、腿とをなでる。
その掌から伝わる、ゴルベーザの暗い情念にカインは震えた。
何処とも知れぬ、寂寞たる光景が脳裏に広がる。
孤独、寂しさ、己が境遇への呪い、叫び。
すべてを呪う恐ろしい叫びが聞こえていた。
叫びを、真っ暗な空が貪るように吸収していた。
空は膨らみ、世界のあらゆるものを飲み込もうと拡がった。
―――セシル！
カインは叫んだ。
闇に向かって、真っ直ぐに駆けていく白い騎士がいた。
幼い時から弟と可愛がり、友と敬った男。
騎士の剣は燦と輝き、闇は砂のように消え去った。
セシルは誇らしげに振り返る、その先に愛してやまぬローザの白い胸としなやかな腕が開かれていた…。
「憎め…」
ささやきが耳を侵した。
これ以上、狂わせるな―――。
カインは叫んだ。
それでも体は、指一本、舌一つ動かなかった。
体がカインの意思で動く時、それはゴルベーザの命令とカインの意思が一致した時だけだ。
そうでない限り、体はゴルベーザの命じる通り動く。
「狂え。」
嫌だ―――。
体を起こし、右腕にカインを仰向かせるとゴルベーザはその幼げな頬に顔を寄せた。
あごの線と、生えぎわと、耳。 唇と舌の感触はカインの心を喘がせた。
ただ見開かれている瞳が、震え始める。
上向いたあごと、足先が震え始める。
「や…め…ろ。」
「…まだ声が出せたか？」 ゴルベーザは言った。
「そんな下らぬ事は言うな。ローザ…だ。いとしい女の名を呼ぶがいい…。」
きつく、カインは口を閉じた。
彼は、そうしたつもりだった。
「ローザ…。」
聞こえた声は、彼の身をすくませた。
ロー…ザ―――。
自分の声だ。
ちがう―――。
「ローザ…。」
やめろ、そう叫んだはずの声は、女の名前に変わっていた。
亜麻色の髪、細い額飾り、濃いすみれ色の目、細く上がった眉。
愛している、どれ程心のうちに叫んだだろう。
愛している。 愛している。
お前を守りたい、お前を抱きしめたい。
けれど、少女の瞳が一心に追うものをカインは気づいてしまった。
誰もが知っていた…、バロン王国一の美貌の少女がどの騎士に心を寄せているか。
共に白魔道を学ぶ娘達は、ローザのいじらしさを語り。
王国屈指の弓の使い手達は娘がその見事な弓の腕前同様、あの寡黙な暗黒騎士を射落してしまうだろうと噂した。
その通りになった。
ゴルベーザの奪い去ったローザを、セシルは命をかけて助けに来た。
負の力の使い手だった暗黒騎士のその身を、試練の山を経て光の騎士に変えてまでセシルは追ってきた。
自分は…。
誇り高い竜騎士である自分は…。
セシルを倒せもせず、ゴルベーザの命ずるまま、ただローザを見張り。
一度は心を取り戻し、セシルに共に戦うと誓いながらまた再びゴルベーザに操られ、友を仲間を裏切り。
このような変節漢、もはや誰も信じてはくれぬ…。
自分さえ、信じられぬのだから。
この世界には、火地風水四大元素の光と闇、八つのクリスタルがあった。
世界の中原と呼ばれるバロン王国はクリスタルを所持してはいなかったが、もっとも歴史の古い最強最大の軍事国家として世界に君臨していた。
ゴルベーザは、世界に散らばったクリスタルすべてを手に入れるため、そのバロンの力に目をつけた。
誰も知らぬ間にバロン王は殺され、魔物が王に成り代わった。
バロン飛空艇団の隊長、暗黒騎士セシルは王命により魔道士の里ミシディアから水のクリスタルを奪った。
しかし罪もない人々を傷つけるかつてない王命に、騎士が不信を抱くと直ちに彼を王国から追放し、ゴルベーザ自らを飛空艇団の指揮官としてバロンに招き入れさせた。
セシルの友であり、バロン王国に等しい歴史をもつ竜騎士団の現隊長であったカイン＝ハイウインドは、ゴルベーザへの追従を拒否し、彼に心を支配された。
心を操られたカインは、バロンを逃れファブールで風のクリスタルの守りについていた友、セシルに槍を振い瀕死に追い込んだ。
ゴルベーザが娘を失った老賢者との魔法戦で負傷した時、やっとカインは心を取り戻す事ができた。
ゴルベーザのもとに捕らわれたローザを救い、カインはセシルと仲間たちと共にクリスタルを守るために戦う事を誓った。
しかしすでに、飛空艇団を操るゴルベーザの前に数多の王国の抵抗は無残に散り、地上の四つのクリスタルは奪われていた。
残る四つのクリスタルは地底界にある。
カインの言葉に地底への道を捜し、飛空艇で巨大な火口に降下した彼らの前で、ゴルベーザの飛空艇団の砲撃がドワーフ王ジオットの壮大な城を襲っていた。
地底のクリスタルも三つまでが奪われ、ジオット王は封印の洞窟に眠る最後のクリスタルを死守する事を彼ら五人に命じたのだった。
バロン屈指の騎士カインとセシル、傷を癒す術を持ち弓の名手でもあるローザ、忍術と言う特異な技を持つエブラーナの王子エッジ、世に希な魔獣や精霊を操る召喚士リディア。
バブイルの塔の建った、小大陸の軍事国家エブラーナの王城は魔物に破壊され王と王妃は魔物に変えられた。エブラーナ王子エッジはその手で父と母を討たねばならなかった。
召喚士の村ミストは、偽バロン王の計略でカインとセシルによって火を放たれた。
召喚士の少女リディアはその生き残りだった。
誰もが自分の意志で、最後のクリスタルを守るため、封印の洞窟へ潜入する決意をした。
洞窟に巣くう魔物たちを倒し続け、幾度も死の淵を覗きかけながら、彼らは、やっと最後の闇のクリスタルを手に納めた。
しかし、洞窟をさかのぼり賢王ジオットの元へ封印の洞窟を今しも抜けようとした時、突如ゴルベーザの声が、カインの脳に響きわたったのだった。
―――帰って来い、と…。
カインは、クリスタルを胸に抱いた友を打った。
クリスタルを奪い、ゴルベーザの開いた次元移動の輪に飛び込んだ。
共に戦ってきた仲間たちの、不信の眼。疑いの目。怒りの顔。
胸を押さえ仰ぎ見た、悲しみの目。
驚きの、すみれ色の目。
ゴルベーザはカインに掛けた術を、解いていなかったのだ。
ついに八つのクリスタルを据えられ、バブイルの塔は天へ直立する虹のように、燃える光を上げて輝いた。
神の門が、開かれた。
しかし、暗黒の使者が開いた門から現れるのは、悪魔でしかありえなかった。
「大層な、ご執心。そんなにその男が可愛いの？」
「そうとも、バルバリシア。」
愛撫するカインの体から顔を上げ、ゴルベーザは笑った。
しどけない金髪を長々と床にたらした美女が、青白い灯りの下にすっくと立っていた。
「生き返ったか。」
「ええ、土のスカルミリョーネも、水のカイナッツォも、あの気狂いの火のルピカンテもね。今度、あのセシルとか言う男に会ったら絶対、挽き肉にしてやるわ。お前もよカイン、よくも何度もこの体に槍を突き立ててくれたわね…。」
ゆらりとバルバリシアは玉座に近づいた。
引きずる金髪は一本一本が意思を持つように、ふわふわと毛先を空中に浮遊させた。
バルバリシアは人ではない、風の精霊に生まれたものを負の力に走り魔物になった。
空に舞うバルバリシアの起こす風は渦を巻き、人も獣も八つ裂きにする。
「お前には分かるまい、バルバリシア。人間はこの小さな器の中で、多くの葛藤をするのだ。」
ゴルベーザはカインの下肢に指を滑らせて言った。
カインの体が、微かに硬直する。
「そうしていれば、少しは可愛いわね。」
苦悶の浮かぶカインの顔を見下ろして、バルバリシアは言った。
「我が四天王がすべて倒されるとは、ただの雑魚と思ったものが、随分と力をつけたものよ。」
ゴルベーザが言った。
バルバシリアは小さく舌打ちする。 土のスカルミリョーネ、水のカイナッツォ、火のルピカンテ、風のバルバリシア。
四人は決して、知能もなく痛感の鈍さと再生力の強さだけで不敵を見せる魔物たちとは違う。
高い知能と、それぞれの四大元素に強い属性を持った戦闘能力は、人間の戦闘力には及ぶべくもないはずだった。
「セシルか…、たいした友を持ったものだ。だが、もう嘆くことはない、カイン。いくら光の騎士と言えども、生きる世界を焼き払われては命はあるまいよ。」
「ゴルベーザ様はお優しいこと。」
仰向いたカインの襟元に、バルバリシアは指を這わせた。
それは、そよ風のように男の生気を吸い取る指である。
ゆらぎと失速感がカインを包む。
「あの痩せた娘は生きている？ 強情な目をしてたわね、敵の真っ只中にいるって言うのに泣きもしなかった。私、強情な娘は嫌いよ。ぎたぎたにしてやるんだった。お前が大事そうにしていたから、何もしないでおいてやったのよ。」
血潮の引く、何処までも落下し続けるような感覚に、胸板に汗がにじむ。
カインはこじ開けるように目を開いた。
呼吸が上がり、目の前にはバルバリシアの揺れる金髪と深い緑の目があった。
「命までは取らないから安心おし…。」
美しい風の精霊は軽く華やかで、光で織られたようなその姿は、何も知らぬ人間の眼には女神と映る事だろう、しかし…。
バルバリシアの瞳が近づき、唇が甘く封じられた。
胸と肩にさらさらとかぶさって来る金髪が、カインの体を流れ落ちる。
その体を押し返す事もできぬまま…。
下肢に添えられた両手は、下帯を割って己を締め始めた。
その気配に気づいた、バルバリシアの息が笑った。
脳髄が叫ぶ。
己がふれる感触と、ふれられているものの感触が自身の選択を許さず脳を襲う。
指の先で変わっていくものと、そのものの内側の熱。
そうやって、ゴルベーザはカインの心を支配したのだ。
精神から理性と誇りの鎧を引き剥がし、心の底に秘め隠した感情を掘り起こし、誘惑した。
女への思いがカインの心を狂わせた、力で人の心など動かせぬものを、動かせると錯覚した。
竜を操り人竜一体となって戦う竜騎士である誇りと、負の力を操る暗黒騎士セシル率いる飛空艇団に王国一の地位を奪われた竜騎士隊の無念。
負の力を操ってなお、優しさを失わず人望熱い友への妬み。
精霊の冷たい舌先が、唇から下肢に踊った―――。
しずくが、一瞬の安楽へ飛んだ…。
バルバリシアは、顔を上げた。
「糸が切れたわ。」
低く笑う。
「もっと欲しい…。」
「私の魔物たちは餌が大変だ。」
ゴルベーザは笑うと、バルバリシアの顔を引き上げ赤々としたその唇に口づけた。
「山中にはまだ、エブラーナ王国の残党が潜んでいよう、好きにしろ。」
風の精は蛇のように冷たく瞳を光らせた。
「では、後ほど…。」
髪が舞い立ち、伸び広がって渦を巻く。
渦は金色の風に変わり、ゴルベーザのローヴの袖を揺らしてバルバリシアは部屋から姿を消した。
∵ ∵ ∵
巨人と言うものが本当に月から降りて、この世界を焼き払い友もローザも失われてしまうのなら、自分が生きている意味もない。
抱き上げられ、運ばれながらカインは思った。
見下ろしたゴルベーザが、笑った。
「月が、呼んでいる。」
ゴルベーザは壁一面に広がったスクリーンを見上げた。
それは、カインには解らぬ力で、この世界のあらゆる所を居ながらにして見ることのできる装置だった。
今見えるのは月、夜空に浮かぶ二つの月の内の中天に上がった片方がくっきりと映っていた。
薄赤い光、以前はそんな色をしてはいなかった。
二つの月は、どのような軌道でか重なり離れながら互いに青い光を放って、夜空を巡っていた。
赤く染まったのは水晶の月、月の面に八角の影が見え、それが中天に登ると世界中の水晶が輝くと言い伝えのある月だ。
「地上を焼き払うのは、月へ行く代償なのだ。それが叶うなら、私は何もいらぬ。」
「では、何故、俺をこんな目に会わせる。操るなら、完全に心を支配してしまえばいいだろう。」
カインの声が言った。
「お前は可愛い。愛、憎しみ、悲しみ、妬み、幾つもの生きた感情がお前の人間の心を食い荒らす。私の感情はそれほど生きてはいない、凍りついているようだ。お前を抱くと、お前の苦しみが、少しこの氷を溶かすようだ。」
ゴルベーザは言った。
「そんな為の虜か。」
「憎しみに心を売るが良い、そうすればお前は魔物になって、私の虜から逃れられよう。自ら苦しむことはない。」
「離せ。」
カインは言った。
そうして、体も動かず許されて出来る抵抗の言葉の空しさに、口をつぐんだ。
回廊をうろつき、侵入者ばかりか元素の性質が違えば四天王達にさえ攻撃してくる狂暴な、炎や冷気を放つ魔物や魔獣達。
しかしそのすべてが、ただゴルベーザの前でだけはおとなしくひざを折る。
足を踏み込むだけで開く銀の扉。
入っただけで塔を上下に移動する小さな部屋。
迷路のような鋼の回廊の奥の、無数の扉。
石ではなく鋼で積まれた塔に窓はなく、塔を包んだ光は、侵入者を弾き返すバリアとなり、どのような攻城機も大砲もこの塔に傷を負わせることは不可能に思われた。
思い通りに動けぬ悔しさが、突然、涙になった。
飛竜は、どうしているだろう…。
ゴルベーザの虜になって、もう随分バロンに戻っていない。
自分の主以外からは餌を受け付けぬ竜は、もう、死んでいるかもしれない。
いやだ…。
仲間の竜騎士達は、必死に餌を差し出してくれているだろう。
しかし食べるはずがない、昔、主だった父が死んだ時も口を開こうとしなかった。
ただ、主の帰りを待ち、翼をたたみ長い首を広い竜舎の入口に向けて垂れたまま衰弱していった。
カインは、五歳だった。
まだ、竜の乗り方も教えられてはいなかった。
それでも、竜の頭に触れて語りかけた。
お前を大好きだった父さんは、もう帰ってこれなくなってしまった。
父さんの竜、僕もお前が大好きだ。
今は、僕がお前を大好きだ。
僕を背中に乗せてくれない？
お前の大好きな空を飛ぼうよ。
お日様で、鱗を暖めようよ。
父さんの竜…。
思慮深い顔をした飛竜は、弱々しく口を開けた。
カインがうさぎを押し込むと、ゆっくりと飲み込んだ…。
何故、飛んで帰れないのだ。
何も失うのは嫌だ。
目尻から、滔々と涙が流れ落ちた。
青い光に、ほの明るい寝所に横たえられる。
薄く瞼を閉じて、寄せられるゴルベーザの顔が、何故かセシルの容貌に重なる。
カインは、きつく目を閉じた。
舌が、千切れそうなほどに吸われる。
押し返すこともままならず、口中を掻き回される。
息ができず血が上る、気が遠のきかけたころ酸素が流れ込んだ。
激しく上下させる胸に、ゴルベーザの手が置かれる。
槍を振って発達した肩よりは、滑らかな胸、いつも鎧に覆われている体は陽に焼けていない。
ゆっくりと、線を引くように男の指が体をなぞる。
激しい衝撃には受け身を取れる体も、そのような触れられ方は対処を知らなかった。
「や…！」
叫ぼうとしたとき、中枢神経に与えられたショックがまた、彼の言葉を奪った。
筋肉の張った胸の印、それを捏ねられて形造られる。
皮を剥かれたように過敏になったそこに、ゴルベーザの舌が泳ぐ。
たまらない、自分の体にそのような感触があるなど知らない。
ひりつくような過敏さに、下肢が昂る。
呻きだけが、喉から上がる。
舌を泳がせたまま、右手が昂りに触れる、熱さを確かめるようにして、ゴルベーザはカインの手をそこへ運んだ。
ためらいなく、カインの指は動く。
知らない部分からもたらされる、狂わしい熱を抜くように正確に動いて行く。
絶え間なくゴルベーザは熱を送り、カインは一気に熱いほとばしりを抜いた。
緊張の解けた体を、ゴルベーザの指がまた滑る。
高い跳躍を得意にする竜騎士の足、その跳躍でカインはバルバリシアの風の渦を越えてバルバリシアにとどめを刺した。
その鋼のような太股の内側を指が、滑る。
固い筋肉とは裏腹の滑らかな感触を、手が遊ぶ。
カインは低く呻く、追い詰められた獣の唸りのような声しか今は出ない。
その体を、ゴルベーザはうつ伏せ、抱え起こした。
カインは、頬を引きつらせた。
何をされるのか分かっている、以前の記憶がカインを萎縮させ脅えさせた。
「あ…う…。」
無駄と分かりながら、拒絶の言葉を吐こうとする口が、ただ舌を突き出す。
「ぐぅ。」 喉が唸る。
カインは顔をしかめ、歯を食いしばった。
悲鳴。
自分の耳さえ痛みそうなほど、カインは叫んだ。
獣のような、声にならない声だ。
背後から、体に差し込まれてくる物がある。
込み上げてくる嘔吐感と、恥辱。
素裸で、同じ男に組み敷かれるなど思いも寄らぬ。
この体に抱きたかった女は手に入らず、代わりに自分が抱かれている。
カインは自嘲した。
すべて自分が悪いのだ。
心の弱い自分が、女一人手に入らぬことで友を恨んだ自分が、恨まずにはおれなかった自分が…。
愛していたではないかセシルを、ライバルとして、だから負けたくなかった。
負けて蔑まれたくなかった。
お人好しで、そんな男ではないと知っていながら、信じなかったのだ。
セシルの信頼を痛いほどに知りながら…。
そうして友も、恋人も失った。
自業自得だ。
腰が揺らされ、カインは悲鳴を引きつらせた。
すべて俺の所為か。
俺が弱かった所為か。
体が起こされる、進むものの嫌悪感に体が震える。
助けてくれ、セシル―――。
「誰に助けを求める。」
深くカインの体に入り、ゴルベーザは耳元に言った。
「光の騎士も、燃えてしまう。」
来…る―――。
カインは喉を震わせた。
あいつはきっと来る―――！
「そう言わずには、耐えられぬか？」
のけ反った耳に、舌が差し入れられる。
密着した腰に、鳥肌が走る。
カインは身をよじった。
打ち込まれるそこが、身を裂くようにひりひりと痛む。
内側から浸食する痛みが、喉を詰まらせる。
痛みに息が上がる。
腰に回した腕にすがるカインの手を、ゴルベーザはほどく。
そうして行き場をなくした手を、ゴルベーザはまた、その下肢に導いた。
「動かせ。左手は、胸だ…。」
「う…。」
痛みのあまり痛感が遠のき、重い痺れと熱がそこに広がった。
「月にも人間が住んでいるらしいと言う話を、聞いたことがあるか？」
カインはうなずいた。
天文学者と言う、巨大な望遠鏡を作って空を観測している男たちが言っていた。
「死んだ私の父は、その月の人間、月の民だと言うのだ。信じるか？」
カインはうなずき、両手を自分の体に遊ばせた。
つながれたそこの痺れと熱が、彼を締め上げていた。
「私には、弟がいた。」
カインの顎に手をかけ、ゴルベーザは言った。
「両親を亡くして、森で離れ離れになってしまった。生まれたばかりの赤ん坊だった。もう、生きてはいまいな。」
およそなだらかな線などないはずの、襟足から肩先へ舌先の愛撫が動く。
カインは突き通された腰を、苦しげに悶えさせた。
痛みに痙攣が、する。
息が首に触れた。
ゴルベーザはその術で、カインの痛みの枷を外した。
喉が鳴った。
呼吸が駆け上がって行く、解放の期待に彼の体はそり返った…。
胸の印と、そり返る下肢を自らの手で捏ねると、口の端から、唾液が滴り落ちた。
胡座した腰に深く抱き込み、ゴルベーザはカインの胸を掻いた。
青い灯りの中に、飛んだ。
カインは笑った。
声の出ぬまま、肩を震わせて。
ごめんなさい、父さん。
俺は、人を憎み、妬んでしまった。
バロンへ戻っても、竜を救うことはきっと出来ない。
友と重なる、ゴルベーザの容貌がカインを見る。
断ち切られた神経が縒り合わされる。
「ゴルベーザさま…。」
喉が言った。
月のような微笑が、プラチナの髪を乱れさせた男の顔に漂う。
舌がすくわれ、体がまた押し開かれた。
竜の背ではない、男の腰が足の間に入ってくる。
助けてくれ―――。
「カイン。」
「ゴルベーザ…さま。」
セシル―――。
「月へ行くぞ。」
「はい…。」
ローザ―――。
ローザ…。
父さん…。
∵ ∵ ∵
竜を、頼んだぞ、カイン。
飛竜は、本当に心の優しい人間にしか心を開かない。
お前は優しい子だ、カイン。
きっと飛竜は、お前の言葉を聞いてくれる。
私が死んでも誰も恨んではいけない、恨みや憎しみを持っていては、飛竜は脅えて心を閉ざしてしまうからな。
いつまでも、優しい子でいなさい。
優しい心で、人と国を守るために戦うのだ。
いいね、カイン。
父さんの代わりに、竜を任せたぞ。
立派な竜騎士に、なるんだ。
十六年前、カインの父は原因不明の熱病で死んだ。
竜騎士団の隊長として戦果めざましい時期で、それを妬んだ者が毒を盛ったと言う噂が、幼い子供の耳にまで入った。
母はもうなく、カインに残されたのは、父ハイウインドの竜だけだった。
空から、地を揺らす足音が近づいてくる…。
この世界を焼き尽くせ―――。
どこからか、ささやきが聞こえた。
焼き尽くせ、森も川も国も人も―――。
私は失ってしまった。愛する私の星を―――。
私には見える、火星と木星の間の水も空気もない無残な小惑星群、砕け散った私の星―――。
誰だ？
何を言っている？
すべてを焼き払い、青き星を私のものにする―――。
だめだ、この世界は…。
焼き尽くせ、焼き尽くせ、焼き尽くせ、焼き尽くせ…―――。
吐き気がした。
こみ上げて来る。
カインは目を覚ました。
青い、月より寒々しい灯りの部屋。
そこには誰もいない、熱い膚が触れているゴルベーザ以外は。
「ゴルベーザ…。」
声が出る。
ゴルベーザは、体を起こし眠たげに瞼を上げた。
「塔を壊せ。クリスタルをもとに戻すんだ。バブイルは、解いてはいけない封印だ！」カインは言った。
ゴルベーザは何も言わず、ただカインの瞳を見つめた。
「焼いてはだめだ、お願いだ。俺のことは、どんなに苦しめてもいい。世界は焼かないでくれ、お願いだ。お願いだ―――。」
ゴルベーザはすがる手をもぎ離し、青年の体をその体躯の下へ引き倒した。
「ゴルベーザ！」
カインは、ゴルベーザを跳ねのけようと体をよじった。
すぐさま全身が、微動だにせぬ腕力で押えられた。
「離せ。離してくれ…。」
「お前は私の片腕だ。まだ、離すわけにはいかぬ。」
哀願の言葉を継ごうとする喉を、ゴルベーザの唇は愛撫した。
愛撫し吸いつき、慰み者にした印を体中に滲ませて行った。
ゴルベーザ―――！
声はもう出なかった。
風が、カインの頬を吹いた。
死臭、水の臭い、炎の熱。
「支度をしろ、カイン。」
ゴルベーザは身を起こし、言った。
体が起き上がる。
四天王が、部屋の四方にゴルベーザを囲んで跪いていた。
「揃ったか。」
「はい。」
バルバリシアが答えた。
赤い顔、髪もマントも灼熱の炎を上げる男、火のルピカンテ。
背を丸め頭からすっぽりと、薄汚れた衣に包まり、物凄い死臭を放つ土のスカルミリョーネ。
ぬらぬらとした青白い額に白目をむき、甲らのような背を床に這いつくばらせた水のカイナツッオ。
金髪を漂わせる、風のバルバリシア。
火のルピカンテは、ゴルベーザの傍らに立つカインにあからさまな蔑視の光を投げた。
この男は何よりも、敵と正々堂々と戦うことを好む戦士で、全力で戦い合うために魔力で敵の怪我まで直す事で、狂人と呼ばれる魔物だった。
ゴルベーザに操られるカインには、表情の変えようもなかった。
体を拭い、竜騎士の鎧をまとい。
冷たい無表情のまま、手足は身繕いをする。
剣を佩き、利き手の左腕に竜騎士の槍を握り。
「行くぞ。」
「はい。」
カインは答えた。
∵ ∵ ∵
スクリーンが明滅していた。
「見るが良い、バブイルの巨人の誕生だ。」
ゴルベーザが言った。
またたくような、その明滅が速度を落とし、やがて朝日のエブラーナ大地が映り始める。
その時、落雷のような激しい摩擦音が塔に響き渡った。
スクリーンの中、巨大な人型をした光が高い山を跨いで輝いた。
光が消えると、そこには甲冑の騎士にも似た鉄の巨人がそびえ立っていた。
その全身が、朝日に黒光りする。
重々しく引きずるような足運びで、しかし数えるほどの歩数で山並みを歩き越していく。
巨人は両腕を胸の前で組み合わせ、左右に広げた。
胸から、数十キロに及ぶ火炎が噴き出し山脈を焦がした。
また巨人が手を広げる、巨人の前方の緑の山々が、半円状に黒く染まった。
炭になったのだ、そこにあった何もかも一瞬に。
鳥も獣も…。
巨人は山脈を越え、平野へと向かって行く。
炎が幾度も噴き出されて、スクリーンの中の景色が見る間に黒一色に変わって行った。
地底から湧き出した、ジオット王のドワーフ戦車隊が巨人に向けて砲撃を開始した。
東の空からは、バロンの飛空艇団が近づいて来た。
「止められはせぬ。焼き尽くせ、バブイルの巨人よ…。」
両肩に異様な角飾りの付いた黒い甲冑を、頭から全身にまとったゴルベーザは言った。
焼き尽くせ、焼き尽くせ―――。
ゴルベーザから伝わる思念が、カインの脳に響き渡る。
月だろうと、どこだろうと付いて行ってやろう。
カインは思った。
どこへでも付いて行って、必ず、この手でこんな事をした者の息の根を止めてやろう。
もし死んだら、死霊となっても追ってやる。
そうでもしなければ、理由もなく焼き殺されたもの達の命があまりにも浮かばれない。
「あれは？」
バルバリシアが言った。
一枚のスクリーンが、巨人とは違うものを映していた。
空のはるか高みから、一匹の鯨の形をしたものが、巨人に向けてものすごい勢いで降下してきていた。
「ミシディアの魔道士どもめ、魔導船を復活させたのか。」
ゴルベーザは苦々しげに言った。
その魔導船から飛空艇に乗り移る人影があった。
飛空艇はためらいなく、見事な操縦で巨人の火炎をくぐり抜け、冑が上がっているような大きく開いた巨人の口へ人影を落として飛び去った。
「光の騎士が来たようだな。」
ゴルベーザは言った。
「巨人の内部、コントロール・ルームに転移する。今度こそお前たちの手で、やつらを亡き者にせよ。」
四人の魔物達にゴルベーザは言った。
巨人の内部は、城のように広かった。
バブイルと同じ、鋼の回廊、銀の扉、スクリーン。
人が造ったのだバブイルもこの巨人も…。
カインの思う神は、こんな血の通わぬ冷たい物を造る神ではない。
鋼で物を造るのは人間だ。
こんな禍々しい物を造るのは…。
幾枚ものスクリーンには、バブイルの塔も今カインがいるはずの巨人の姿も映っている。
巨人が進むごとに変わるスクリーンの風景は、巨人の目を映しているのだろう、近づく景色はすぐに火炎を浴びて黒く変わる。
しかし、やがて巨人は止まった。
巨人の心臓、コントロール装置が破壊されたのだ。
誇らしい…。
カインの心は微笑していた。
俺の友は、こんな巨人も止めることができるのだ―――。
やったな、セシル。
セシル。
たとえ心の中ででも、その名を呟けるのが誇らしかった。
スクリーンの中では、巨人が体の節々から濛々と何色もの煙を噴き出している。
「おのれ！」
声がした。
ゴルベーザではなく、別の人間の声に聞こえた。
何か、激しい人の感情が、カインの脳を打った。
見つめていたスクリーンがぐらぐらと揺れて、カインは固く槍を握りしめて、つやつやと光る鋼の床に倒れた。
ゴルベーザが、術でセシル達の元へ飛んだのが感じられた…。
∵ ∵ ∵
幾千夜、幾万夜、芽生えた思いはゆっくりと膨らむ。
憎しみ―――。
ある時、誰のものとも知れぬ憎悪が少年の心に流れ込んだ。
それは、知識や記憶に巧みに絡みつき、妨げになる温かな記憶を少しずつ少しずつ、忘却の底に沈めて行った。
熱を封じられ、感情が止まり、心が凍る。
父クルーヤの同胞がいるという、あの月に行きたい―――。
欲望だけが生きて走る。
それは、月の地下深くに封印されたゼムスの巧みな洗脳だった。
「おぬし、自分が誰か分かっておるのか！」
青い衣を覆う白髪、白髭、深い感情を秘めた目をした老人が言った。
「やめろ！」 いわれのない脅えが彼を襲った。
天にかざした老人の手が、眩しい光を発してゴルベーザを打った。
「おぬし、父の名を憶えているか？」
精神波を放ち、力尽きた老人はそれでも、慈愛に満ちた声音で言った。
「父………、クルーヤか…？」
「なんだって！」
叫ぶように、剣を握ってそこに立ち尽くしていた光の騎士が言った。
「ゴルベーザが…、ぼくの…。」
身なし子のセシルの父は、月の民クルーヤ。
青き星に憧れ、幾度も調査に降りたクルーヤは、遂に一人青き星の娘を愛し、青き星で死んだ。
その息子の一人であると、セシルはクルーヤの兄であるこの月の民の長、眠りの番人フースーヤから聞いたのだった。
「おぬしは、ゼムスのテレパシーで利用されていたのだ…。クルーヤの月の民の血が、よりそれを増幅していたのだ…。兄弟で戦うなど！」
「ぼくは、兄を憎み、戦って…。」
「お前が私の…。」
「もしかしたら、逆だったかもしれないんだ…。ぼくがゼムスのテレパシーを受けていれば…。」
「しかし、それが私に届いたという事は、少なからず私が悪しき心を持っていたからだ。ゼムス…！」
「どこへ！？」
セシルは言った。
「この戦い私自身が決着をつける。」
ゴルベーザは言った。
「待て！ ゼムスも月の民、私も共に行く。」
フースーヤも言った。
「さらばだ、セシル…。」
二人の姿が消えた。
『あなたがバロンの王様ですか。』
『いかにもそうじゃが。』
臆する様子もなく子供に声をかけられ、王は興味深げにその薄汚れた少年を見た。
『父さんも母さんも死んでしまって、僕では弟を育てられません。バロンはとっても強い国だと聞きました。僕の弟を強い騎士にしてください。』
そう言って少年は、大事そうにきつく抱えていた布の固まりを王に差し出した。
銀色の髪の赤ん坊がすやすやと眠っていた。
『よく寝ておるな。騒がしかろうに。』
『眠りの魔法を掛けたから…。』
少年は言った。
『でも、もう少ししたら目を覚まします。どうぞ、育てて下さい。きっと、強い男になります。』
『よかろう。お前も一緒に来なさい…。』
『いいえ、僕はもう、一人で大丈夫です。』
王の腕で、赤ん坊が声を出した。
『弟をお願いします。』
そう言って、少年は駆け去った。
ミシディアの、試練の山と呼ばれる険しい山を囲む深い森の入口だった。
カイン―――。
ゴルベーザの声がした。
激しい光が、カインの脳にきらめき、消えた。
カインは目を開けた。
煙、崩れる歯車のきしみ、爆発の轟音。
カインはコントロール・ルームを飛び出した。
制御を失って倒れてしまったらしい鋼の魔物が、幾つも通路に転がっている。
時折、熱線や電撃を発射するその魔物達を飛び退けながら、カインはセシルを探した。
「こっちだ！」
カインは叫んだ。
白煙、黒煙が視界を妨げる。
破壊された巨大な装置の前に、途方に暮れたような、仲間たちの姿があった。
「カイン！」
セシルの顔が輝いた。
ローザもいる。
怪訝そうな仲間を押して、カインは側の転移装置に乗せた、ゴルベーザに教えられた通り、座標を合わせレバーを引く、一瞬に硝煙のくすぶるエブラーナの大地に移動した。
遠く、鋼の黒光りする巨人が火柱を上げて爆発した。
「やっと、自分の心を取り戻すことが出来た…。いまさら、許してくれとは言わんが…。」
カインは、四人の仲間に言った。
「あたりまえだ！」
エブラーナの王子エッジが叫んだ。
「てめえのせいで、巨人が現れたも同然だ！」
「やめて！ ゴルベーザも正気に戻ったので術が解けたのよ！ カインのせいじゃないわ！」
ローザが言った。
「ゴルベーザ…も？」
「ゴルベーザは、セシルのお兄さんだったの…。」
瞬間、兄と言う言葉の意味を、カインは理解しかねた。
「ゼムスと言う月の民が、ゴルベーザの月の民の血を利用していたらしいの。」
「ゴルベーザが…、セシルの兄…。」
カインは言った。
セシルは俯いていた。
彼もまた、兄と言う言葉を考えているように見えた。
草地の上に、あの魔導船がのっていた。
「昔、月から来た船なの。」
ミシディアの長老と魔道士達が長い祈りを上げて、海から出現させたのだと、ローザが言った。
月に、やはり人間が居たのだ。
月からの導きで、ミシディアの魔導船に乗り月に行った四人は、セシルの父がクルーヤと言う月の民であることを知った。
彼らを呼んだ月の民フースーヤは、ゼムスが青き星に巨人を下ろすのを妨げるため、そのエネルギー源であるバブイルのクリスタルを取り外そうと四人と共にやって来た。
しかし、時遅く巨人は復活し、彼らは巨人に潜入したのだ。
「ゴルベーザは、ゼムスを倒しに月へ行ったわ。」
リディアが不安気に言った。
「…ならば、俺もこの借りはそのゼムスとやらに返さねばなるまい。」
カインは言った。
「また、操られたりしなきゃいいがな。」
エッジが言った。
封印の洞窟での裏切りが彼を毒づかせていた。
「その時には、遠慮なく俺を切れ。」
エッジの青い目を見返して、カインは言った。
エッジはにやりと笑った。
「なら、俺も行くぜ。そいつにひと太刀浴びせなきゃ、気が済まねえ！」
「行こう…、僕も月に行く！」
顔を上げ、セシルも言った。
∵ ∵ ∵
巨大な鯨が浮かび上がる。
青い、空の海へ。
魔導船は、飛空艇よりも高く空へ上っていく。
雲の海をつき抜け、空の深海へ。
「見て、あれが私たちの世界よ。」
ローザが窓を示した。
青き星…。
遠のいて行く、滴るような青い星。
なぜ、ゼムスは愛せなかったのだ？
これほど美しいものを…。
なぜ、焼きつくそうなどと思ったのだ？
私は失ってしまった。愛する私の星を―――。
私には見える、火星と木星の間の水も空気もない無残な小惑星群、砕け散った私の星―――。
焼いてどうするんだ。 愛さなくては、失うだけだ…。
難しいこともあるが。 愛さなくては何も生まれない、育たない。
無数の星々の海の中、乾いた灰色の星が顔面に迫って来る。
「月だ。」
噛み締めるように、セシルが言った。
おそらくセシルは、黒い冑の下のゴルベーザの顔をよく知るまい。
髪の色も、瞳の色も兄弟と言われれば、疑いようのないほどよく似ている。
カインは、苦笑した。
「カイン。バロンの白魔道士達が君の竜に、一生懸命回復魔法を掛けてくれてるって、竜騎士達が言ってたよ。早くバロンに戻ろうな。」
「ああ、セシル。」
カインは笑った。
どうしたって、憎みきれっこない。
だから、俺は人間でいられるんだ。
「絶対、戻ろう。」
憎しみで魔物になってしまった可哀相な男を倒して…。