僕は何のために戦ってきたのだろう？
高原の雪は、小さな港町で育った僕をあざ笑うように降り続けている。
姉さんはもう戦いは嫌だと言った、僕だって戦いなんかしたくない。
明日死ぬか、今日死ぬか、死ぬことを考えるとぞっとする。
死にたくない、死にたくない、死にたくない―――。
僕と同じ気持ちが、敵からも伝わってくる。
それなのになぜ向かってくるんだ、それなのになぜ、僕は彼らを倒すんだ？
姉さんは帰ってしまった。
僕たちは二人だけの姉弟だと、そう言っておいて姉さんは…。
「ドラゴンの群れだ、二三…四頭いるぞ。あとは――。」
「リザードマンがいるわ。」
「見えるのか、アロセール。」
「伊達に弓を握ってきたわけじゃないわ、カノープス。…こっちも四人よ。」
白い何重もの雪のカーテンのわずかな隙間から、カノープスとアロセールが敵の存在を確認した。
「装甲の固い、お客さんばかりだのぉ。」
「正面からは当たりたくないですね、バイアン。見逃してはくれないかな？」
「無理だなデニム。向こうも気がついたぜ、リザードマンがドラゴンをけしかけてやがる。」
「カノープス、左手に敵はいませんか？」
「上の方に、二人だ。」
「それくらいなら、渡河じゃな？」
「はい、川を挟んでドラゴンを迎撃しましょう。」
雪に埋もれたジネの木の林から、僕には見えなかった雪と同じ真っ白な背をしたドラゴンが次々に這い出して来た。
その後ろからは、鎧のように固い皮膚を持つリザードマンが槍や弓でドラゴンを追い立てながら現れた。
僕は少しだけほっとした。
もちろん彼らは普通の対人用の武器ではなかなか致命傷を負わせられない面倒な敵だけれど、僕は、人間ではない、少なくとも人間の顔をしていない者が当面の敵であるのがありがたかった。
「こんな寒冷地で生きているなんて、彼らは水神グルーザの守護を受けているのね…。」
岸辺に薄氷の張った川を渡りながらシスティーナが言った。
僕は何か、心を見透かされたような気がした。
この世界に生きるものはすべて何れかの神の守護を受けている。
それは見てくれは違っても、みんな、同じ命の源から魂を分け与えられていると言うことだ。
それは、神父だった父さんが何度も僕ら姉弟に話してくれたことだった…。
「デニム、何をぼっとしてるんだ？ 君は強いけど、気を抜くと危険だぞ？」
フォルカスさんが心配げに僕を振り向いた。
いけない、こんな風ではみんなを不安にさせてしまう。
僕と姉さんが、戦いを続ける続けないで口論している間も、みんなを心配させていたんだ…。
だから、本当を言えば僕は、カチュア姉さんがゴリアテに帰ってくれてよかったと思っている。
戦場にいるより命の危険にさらされる心配も少ないし、口論もしないですむ。
そばにいないのは、不安だけれど…。
川を渡るポイントを捜して水際をうろついているドラゴンに、バイアンとシスティーナが魔法を浴びせかける。
アロセールの弓が、じりじりと弱っていくドラゴンに重く突き刺さって行く。
「来た来た。」
素早く斜面を駆け下りてくる二人のリザードマンを、カノープスさんの槍が太い唸りをあげて凪払った。
フォルカスさんが走り寄り脇から一太刀、そして僕の剣が、深くリザードマンの肩口に切り込んだ。
「グがぁっ！」
叫びながら、彼は自分にとどめを刺した僕を見た。
白目のない、丸い黒曜石の様な目がかすかにうるんだ。
太い尻尾で固い根雪をはじき飛ばしながら彼は倒れた…。
「…だめだ、殺すな！」
僕は叫んだ。
襲いかかってくるもう一人の手負いのリザードマンに、槍を繰り出そうとしたカノープスさんはとっさに槍を防御に構えた。
「かなり興奮している、まだ説得は無理だよ。」
「やってみるよ。」
フォルカスさんの忠告も耳に入っていなかった。
「どうか、話を聞いてください。」
リザードマンの顔は僕たちには見分けがつかない、今とどめを刺したのと同じ顔に、僕は語りかけた。
「僕たちは、あなた達と戦うためにここに来たのではないのです。僕たちは一刻も早く、ブリガンテス城に行きたいんです。どうか無益な戦いは―――。」
「デニム！」
カノープスさんが叫んだ。
リザードマンが槍を突き出した、それを盾で受け止めた僕は次の瞬間、衝撃で川の縁までつき飛ばされていた。
リザードマン達は次々に、固い体を雪の上に横たわらせて行った…。
「風よけになるいい岩陰があるよ。今日はここでキャンプをしないか？」
「いや、もう少し進もう。せめてブリガンテス城が見える辺りまで今日のうちに行きたいんだ。」
小さくうなずいて、フォルカスさんはまた僕の前を歩き始めた。
何を意地張っているんだろう僕は、さっきの戦闘が予想以上に長引いたばかりに、みんな疲れている。
疲れと寒さで、みんなの足は重く士気も低下している。
こんな時に敵とぶつかったら、負傷者が続出するに違いないのだ。
フォルカスさんもそれを心配して休もうと言ってくれたのに…。
後ろのほうでも、ぼそぼそと不満を言う声が聞こえる。
うるさい、進むんだ―――！
「おいデニム、眉間にしわが寄ってるぞ。」
偵察から戻ってきたカノープスさんの声が、雪混じりの風をついて、頭上から聞こえた。
「ほらほら、そうにらむなよ、デニム。城まではまだかなりの距離だったぞ。風も激しくなっている、今日はもう適当な所でキャンプした方がよさそうだ。」
「僕は、今日中に―――！」
「フォルカス、バイアン、ちっと頼むぜ。」
激しい風が正面から吹きつけて来て、目をつぶった一瞬に、僕の足は地面を離れていた。
「何をするんです！ 放してください！」
カノープスさんに抱えられた僕は、山を下る風に乗ってものすごいスピードで今来た道を滑空していた。
「暴れるとおっことしちまうぞ。この速度で落ちたら、ただの怪我じゃすまない、谷に落ちたらあの世行きだぞ。」
「…なら、降ろしてください。みんなのところへ戻らなきゃ。」
「口だけだ。」
「え？」
風の圧力に息を詰まらせながら僕は聞き返した。
「口だけだよ。何を考えているのか知らないが、お前は仲間のことなぞ考えていない。」
胃の辺りが、ぎりぎりした。
「放せよ。」
「ああ、放してやるよ。」
追い風にブレーキをかけるように、巨大な翼が前へ向けて羽ばたいた。
風は強い、そこで飛行を止めることが並みの苦労でないことが僕にはわかった。
この寒さだというのに、カノープスさんの膚は赤くなり汗を吹き出していた。
微妙に羽ばたきを繰り返しながら、カノープスさんは谷を降下しはじめた。
大地がぱかりと口を開けたような谷、その側面にそれこそ鳥でもなくては入れない、足場のない洞窟の入口があった。
「そこで、頭を冷やせ。」
僕を洞窟の中にほうり込んで、カノープスさんは吹雪になった外に飛んでいってしまった。
「また、おいてきぼりか…。」
僕の呟きは、乾燥した洞窟の中には響きもしなかった。
「寒いじゃないか、薪も何もないんだぞ。」
暗い洞窟の壁にもたれて僕はひとりごちた。
僕は何のために戦っているんだろう？
理想の世界を作るため？
理想、争いのない世界？
そんなもの、あるはずがないだろう？
姉弟でさえ争うのに―――。
光の神イシュタルを倒して、暗黒の、闇の眠りの世界にでもしなくちゃ争いがなくなるわけがない。
『君たちのような若者が戦わなくともよい、そんな世界を築きたいものだな…』
ランスロットさんはそう言っていた。
それでいいんだろうか、僕も…。
小さな争いはあっても、戦のない世界。
欲に駆られる権力者を生まない世界。
それでいいんだろうか？
こんな僕の目的で、みんなは納得し付いてきてくれるだろうか？
灰色の不安が僕の胸をいっぱいにした。
誰もいない、真っ暗になった洞窟には僕しかいなかった。
……カノープスさんは迎えに来てくれるだろうか？
この吹雪で、翼を傷つけ谷に落ちたりはしていないかと、僕は洞窟から首を出し谷を覗いた。
吹雪はもう、たった一バス先も見えないほど強くなっていた。
「カノープスさーん！」
呼び声も、風に吹き流されてしまう。
「カノープスさぁーん！」
「おうっ、呼んだか？」
大きな黒い影が、僕をつき飛ばして洞窟の中に飛び込んできた。
羽を震わせ、肩で息をして、大きな荷物袋を抱えたカノープスさんがそこにいた。
「無事だったんですね。」
「何を言ってるんだ、これぐらい。ゼノビアにいたときは、地の果てまで続く雪原でも、さんざん戦ったんだぜ。」
「よかった―――。」
「何を、情けない顔してるんだ。食料と薪を持って来た少しだけどな、今夜はおれが話を聞いてやるから。何でも話せ。」
乾パンと果物と水袋を取り出すと、カノープスさんは袋を逆さまにして、薪をばらばらと地面にあけた。
一握りの枯れ芝の上で石を打ち合わせると、すぐにオレンジ色の炎が広がった。
「フォルカス達は、雪を掘ってテントを張ってたからな、こっちは風も来なくて御殿のようだぞ。」
「ありがとうございます。カノープスさん。」
「何、硬くなってんだ。今日は誰もいないからな、安心して何でも言っちまえ。兵士連れてちゃな、気張ってなきゃならないからお前も疲れてんだろう。」
「いえ、もう大丈夫です。こんな…カノープスさんにまで心配かけて。大丈夫、しっかりしますから。」
「俺は、そんなこと言ってんじゃねぇ。リーダーづらをちょっとやめろって言ってんだ。優等生の顔して、そう言う顔をしてると、あと三十年位たつとな俺の知ってる魔法使いのじいさんみたいに、嫌味なカッコつけじじいになっちまうんだぞ。」
「それは、ウォーレンさんのことですか？」
「わざわざ、聞くな。」
憮然とするカノープスさんが、面白い。
乾パンを口に押し込み、水でふやかしては飲み込む。
少ししなびたりんごやアンズの甘さに、舌が喜ぶ。
ブリガンテス城に行ったら、みんなに温かいものをたくさん食べさせよう。
柔らかいパンに油たっぷりの肉、新鮮な野菜にスープ。
「少しは元気になったみたいだな。」
「僕は、別に具合悪くなどないですよ。カノープスさんが勝手に…」
「まだ言うのか？」
カノープスさんが怒ったように、僕を見た。
「俺は、リーダーづらをやめろと言ってるんだ。初めてゴリアテであった時のほうが、いい顔をしていたぞ。」
「そんな、急に顔なんか変えられませんよ。それに、僕は本当にリーダーなんだし―――。」
「ふん、そうか。それなら、変わるようにしてやるしかないか…。」
「え……？」
まるで赤ん坊のように、僕の抵抗はジタバタともがくだけで、カノープスさんは鼻唄でも歌い出しそうなほど簡単に、僕の服をはぎとってしまった。
「少し寒いからな、それぐらいは残しておいてやろう。」
「何をするんですか？」
膝と手で僕を押えつけて、カノープスさんは答えない。
虹彩が絞られた目は、まるで鷲の目みたいに見える。
「カノープスさん！」
「すぐわかる。」
ぼそっと声がした。
カノープスさんの手が下着の脇から僕の中心に触れた。
「やめてください。何するんです―――！」
探るようにカノープスさんの手が動く、僕はもがいた。
揉み合っている間、何度も触れられていた僕のものは、緊張していた。
「やめてください！」
「ぎゃんぎゃんうるさいぞ。どんなデカイ声を出したって、相手を従わせることはできないぜ。中身が出来てなきゃな。」
「うるさい！」
そうだよ、僕は小さいよ。
戦いで倒れても、僕の体なんかすぐに雪に埋もれて、誰も振り向きはしないんだ。
大きな理想も立派な思想も持てない僕は、リーダーである資格なんかないんだ。
だからみんな、僕を置いていくんだ。
僕は地面を蹴り、岩壁を探り、カノープスさんから逃げるとっかかりを捜そうとした。
お腹の辺りに、あやしい熱がくすぶっている。
「いっぱしじゃねぇか、体はな。」
「うるさい！ あなたには、僕の気持ちなど分かるもんか！」
「デニム、俺は分かってやろうなんて思っちゃいないぜ。いちいちそんなこと考えてると、頭が変になるからな。そう言うのが得意なやつってのも、世の中には居るかもしれないが、俺は戦うほうが得意なんでな。」
「それじゃ、僕の騎士団で一緒に戦ってくれているのは、戦いがしたいからなんですね…。」
「デニム、そんなに俺を怒らせたいのか？」
違う…、不安なんだ…。
「カチュアがいなくなった位でこの動揺か、まだ臍の尾がとれてないんだな。」
かっと顔が熱くなったのが分かった。
「ガキだガキだ。カチュアは自分でゴリアテに帰る道を選んだ。お前は進軍する方を選んだ。そうじゃないのか？」
「僕は…。」
「そらそら、これも脱いじまえ。お前らは日頃っからこんなに布切れを巻きつけているから、気持ちまで虚弱になっちまうんだよ。」
「寒い…。」
僕は本当に素っ裸にされて、剥ぎ取られた服の山の上に座っていた。
「どうだ、せいせいするだろう？」
こんな気温で正気の沙汰じゃないけれど、硬い靴もチェンメイルも、下着もみんな脱いで体は軽かった。
「すうすうしますよ。」
僕は、立膝で股間を隠して言った。
図星を指されて熱くなった顔と…が、まだ冷めずに、火照っている、早く冷めろ…。
「いちいち、かわいげがないガキだぜ。もっと素直にならねぇとな。」
カノープスさんは口の端をあげて笑うと、指先で僕の胸の真ん中を突いた。
「うわっ。」
よろけた僕を、カノープスさんは手を引っ張って胸に抱え込んだ。
体がびくりと震えた、寒さではなく、驚いて―――。
カノープスさんの手が、僕を包んでいた。
「温かいだろう。」
「離してください、さっきからカノープスさんは変なことばかりする。」
「変か？ まあ、姉さん子のお前が、まだ女を知っているとは思えないし、確かに変かも知れないな？ ギルダスでもいれば、女の口説き方でも教えてやれるんだがな…。」
つぶやきながら、暖かい手が僕の知らない動きをした。
「うっ…。」
僕は歯を食いしばって体をひねった、そのままカノープスさんは片手で僕を服の山の上に押えつけた。
「離してください。」
「おとなしくしてろ。」
「はなせ…！」
カノープスさんは笑っている。
足をばたつかせても重い体と、腕を払いのけられない、くやしい―――。
「はなせよ、はなせっ！」
僕は息を詰めた。何で、こうなっちゃうんだろう？
カノープスさんが、つぼを心得すぎているんだ。
「ほら、いいぞ。」
僕は首を振った。出来るわけないじゃないか、人が見てる前でなんか―――。
「はなせっ、向こうに行けよ！」
「嫌だね。ガキをいじめるのは楽しいんだ。特につっぱらかってる奴はなおさらなんだ。」
ちくしょう―――。
もう、声が出せない。
いやだ、こんな恥ずかしいのは―――。
「ほら、強情張るな、情けない顔してるぞ。」
情けない…？
そうだよ、情けないよこんな格好を見られて…。
突然、僕は引き起こされ、カノープスさんの膝に後ろ抱きにされた。
「本当にひよこだな。筋肉だってまだこんなに柔らかいじゃないか、なぁ、今からこんだけ鍛えていれば、立派な騎士になるさ。」
後ろでカノープスさんが言った。
背中が暖かい…。
「あ…っ」
硬直した僕の体を、カノープスさんはきつく抱えた。
人肌の暖かさに、僕の体は負けてしまった…。
カノープスさんは口の端を笑いで歪めながら、僕の背中に上着をかけた。
僕は両手で顔を覆ってうつむいた、自分がとても情けない顔をしているのが分かったから。
「これで、俺の前ではつっぱってもしょうがないぞ。なんたってなぁ、お前の一部始終を見たからな。」
「ひどい、カノープスさんはひどいよ…。」
「おい、女みたいに泣いてるんじゃないだろうな？」
僕は、黙ってうつむいていた。
「お…。これだからガキはいやなんだ…。」
カノープスさんの声が動揺している、僕は顔を上げた。
「泣いてるわけないでしょう。僕は、怒ってるんです。」
「なんだ、脅かすな。」
泣くほうが脅しになるなんて変だ、カノープスさんも僕にやったことに、負い目があるんだ。
「何を、嬉そうな顔しているんだ。」
「嬉そうな顔なんてしていませんよ。ああ、確かにすっきりしたな…。ありがとうございます。寝ましょう、疲れちゃった。夜が明けたら、ちゃんとここから出してくださいね。」
「なんだ、ずいぶん偉そうにするな、リーダー。」
「僕も恥ずかしい思いをしたんだから、いいでしょう？」
おかしな理屈を言って、僕は壁に寄りかかった。
早く朝になって仲間たちの顔がみたい。
僕は、目をつぶった。
古都ライムがロスローリアンに襲撃された時から、カノープスさんの仲間のゼノビアの騎士達はみんな、行方が分からない。
ギルダスさん、ミルディンさん、ランスロットさん、ウォーレンさん。
心配でないわけがないのに…。
カノープスさんは焚き火に、薪をたしてくれた…。