―――ジークフリートの名をその子に授けます。
ハルバルド、あなたの 手でその子供を、このアスガルドの全戦士の束ねとなりうる戦士に育てて ください。
―――わが一命にかけて。
うやうやしく、戦士は赤ん坊を受け取った。
城壁に登る。
晴れ上がった空は、風が鳴っていた。
「さあ、よくごらん、ジークフリート。」
片腕の小さなぬくもりに、ハルバルドは言った。
「これが、お前のアスガルドだ。」
険しい山並みが、遠くぐるりを囲む。
その中には立ち並ぶ兵士の槍の穂先のように、天を付く針葉樹が無数に 並ぶ。
「何百万の大隊のようだろう？ この森がな、このアスガルドを守って くれているのだ。」
その広大な盆地の中央に、また盛り上がる険しい山。
そこが、ワルハラ宮殿を頂いていた。
その裾野に、石造りの髄を尽くした城下が広がる。
「良い名をいただいたな、お前。」
話しかけられて、赤ん坊はじっと戦士の顔を見る。
「お前の名はな、昔、このアスガルドの神々が自分達の滅亡の運命を知っ た時。最後の希望をかけて、この世界に作られた人間の名なんだ。恐れを 知らず、あらゆる定めから自由な者、そして、常に勝利する者と言う意味
なんだよ。」
風が、赤ん坊の柔らかな髪を遊んで吹き抜けた。
「ジークフリート。」
ハルバルドは名を呼んだ。
きゃっ。と、赤ん坊が声を出す。
パタパタと足を振って、抱かれた腕の上で戦士の顔に手を伸ばそうと伸 び上がる。
「ん？」
近づいた顔を赤ん坊の手が打つ。
ペち、……ペちペちぺち、ぺち。ぺちぺちぺちぺちぺち………。
音がするのが楽しいのか、際限なく叩く。
「おいおい…。」
赤ん坊とはみんなそういうものなのか、まだ一人身のハルバルドには分 からなかった。
焼き討ち略奪の末の皆殺し、そんな戦禍を被った町で、危うく蹄に掛け かけて、拾い上げたときも、この子は泣いてもいなかった―――。
民を助け切れず、無念に震えていた自分の前で、この子は、笑っていた。
燃え落ちる建物の炎の熱さより、遥かに暖かい小さな火がそこにあった。
「ばぁ。」
「まだ、怖いものがないのだな。」
ハルバルドは赤ん坊を、高く持ち上げる。
嬉しげな悲鳴をあげて、赤ん坊は足を振る。
「そのままで、いるんだぞ。ジークフリート。恐れなんかを持ってはい かんぞ。――そうだ、どんな感情からも自由でいろ。怒りにも悲しみにも 自由でいろ。お前はこのアスガルドを守る戦士になるんだ。どんな敵が押
し寄せようと、お前も何百万の大隊を率いて打ち破れ。」
「はぅばー。」
「ん？」
ハルバルドは高く笑った。
「私は、ハルバルドだ、ジークフリート。―――さあ、挨拶をおくれジー クフリート、お前が立派な戦士になるまで。いや戦士になったら、アスガ ルドの戦士として供に死ぬまで。私たちは一緒なのだからな。」
その、小さな額にハルバルドは口付けた。
気にしげに、ジークフリートは自分の額を叩く。
「ほら。」
差し出された頬に、赤ん坊は目を丸くする。
「ばー。」
「叩くんじゃない！ こら…。」
「ぶー。」
「チュ、だ。ジークフリート。チュ。」
「…ちゅ。」
こん、と頭がぶつかった。
「何もわからんか？ 困ったな。明日、私の母に聞いてこような。」
嫁をもらえと、うるさい母に子供をもらったなどと言ったら、どんな顔 をされるだろう？
しかし、食事も、おむつも、母ならよく分かっているはずだ。
「―――ここは雪と氷で厳しい土地だけれど、美しいだろう、ジークフ リート。ここは神の作られた、私たちの祖国だからな。」
強い風が、高い歌を歌う。
大きく目を見開いて戦士を見つめていた赤ん坊は、風の音を追うように 空を見、そして笑った。
空には何もなかったが、ハルバルドもまた笑った。
ぐるぐると、マントをはためかせ、風が踊る。
「風も、我らの味方だぞ。」
天打つ木々も、風も、陽も…。
長きの冬には雪も、氷も、この神の聖地アスガルドを守ってくれる。
「お前も、自然の友となれ。」
高く高く、ハルバルドは赤ん坊を天へ上げた。
「はばー。」
足を振り、赤ん坊は笑う。
吹き上げる風の冷たさも、強い命の前ではそよ風だ。
ハルバルドは誇らしげに微笑んだ―――。