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月に引かれて潮の引く
モン・サン・ミシェルの浜を人は行く
あまつちを創りたる神の奇跡を
ぬかるみを踏む足裏に思い
仰ぎ見る空に
いま降臨せんとするみつかいの姿を認め
恋焦がれるように岩山を目指す
何故、かくのごとくなったか？
失われたエデンを人は求む。
エデンはさほどに素晴らしきか？
否、エデンは失われしもの、
さなれば、なんぴとをも裏切らぬが故
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――――周囲のざわめきが、波が引くように遠くなった…。
遠のく音と共に、戯れに肩に巻かれた婦人のショールが革紐に変じて彼の体を縛した。
「お前も、あの子供のように記憶がないとは言うまい？」
「残念だが…。」
ミカエルはそう言うと、静かに口を結び椅子へと体を預けた。
腕と体に巻きついた革紐が、スーツの上から肉に食い込むように彼を締上げる。
それはショールの持ち主である婦人の、彼への強い執着そのものだった。
どれほど締め上げても、獲物を捕らえた事を得心できない、それは悲しいほどに空虚な心だった…。
「大人しく捕らわれているか。」
「ヒトの心を砕く事は出来ない。」
「それでこそ天軍の一の君だ。戦うつもりは無いか？」
主命を堅持し人を守る事を一とする天軍の総帥にアンドラスは言った。
「そなた達が再び叛旗を翻したなら、私は悉く反逆者たちを討ち果たすだろう。」
「そうか…。」
アンドラスは低い笑いを漏らした。
「赤き…天狼星よ。」
ミカエルの顎を捉えてアンドラスは言った。
「私は、お前を奪ったものを許しはしない。」
「――――それゆえの堕天。」
ミカエルは幽かに眉をひそめて言った。
アンドラスはミカエルの青い瞳を覗き込みながら、その襟元に手を差し入れた。
多くの物質からなる地上界に打撃を与えぬために、大天使が化身した人の体には尚も革紐がきつく食い込み続けている。
「やめよ！」
胸板に食い込む革紐に力を加えようとするアンドラスに、ミカエルは鋭く言葉を発した。
「砕く事、まかりならぬ。」
アンドラスは口の端を上げて笑うと、ミカエルに椅子から立ち上がることを促した。
ミカエルはアンドラスの導くままに、テーブルの上に自由の利かぬ上半身をうつ伏せた。
最早、御使いとしての有るべき使命をアンドラスに説いても、堕天を選んだ者との間に接する点の無い事は明らかだった。
「土塊の子などの為にな。」
元は同じ、混沌より生まれたものの気配が、ミカエルの背後に立つ。
「アンドラス…」
嘗てのように、ミカエルは天軍の指揮官の一人であった者の名を呼んだ。
堕天した者たちのそれぞれの罪状を聞きはしても、天の戦いの、その発端が何であったのかを、今だミカエルは知らない。
ただ、戦いの兆しの中、ミカエルは神により天軍の総帥に置かれ、彼は使命を全うするために戦いを戦った。
「無垢で従順な獣こそが、神のお気に入りだ。」
アンドラスもまた、親しげに口を開いた。
地の獣のように荒ぶり、赤く燃える炎を発して容赦なく不正を裁く天使、それが天の最下位にあった頃のミカエルだった。
「私もまた…お前の事が気に入っていた…。」
そう言ってアンドラスは、その存在をミカエルの化身した肉体の一部に添わせた。
「何故、あの者を連れて来た？」
「…答えられぬ…。」
ミカエルの瞳に影が落ちる。
アンドラスは、その存在の一部で容赦なく人に化身したミカエルの体の内側を探り始めた。
「う………。」
化身した体を裂かれる痛みに、ミカエルは眉をひそめた。
物質としての交わりは、こうも辛いものか。
それを思うと、アンドラスの手に渡した少年の身が痛々しく思い遣られた。
「う…う……。」
肉体の上げる悲鳴に、ミカエルは息を漏らした。
摩擦と抵抗と…、なんと肉の重い事か。
なんと、交わる事の遠くもどかしい事か…。
すると革紐が、その交わりを嫉妬するようにミカエルの体をより強く締め上げた。
化身した肉体に纏ったものが感覚から消え去った中で、人の心からなるそれだけは、ミカエルの光を纏う肉体に食い込み、胸を腕を手首を締め上げた。
周囲でさざめいている人間達には、二人がただ語っているようにしか見えぬ筈の物を、それでさえもミカエルに執心する婦人の心は許せぬらしい。
「ヒトの分際で…」
アンドラスはミカエルの手首に掛る革紐に手を伸ばした。
「砕いてはならぬ…。」
「掴むだけだ…。」
アンドラスは言った。
その瞬間、こちらを見つめる婦人の目が激しくアンドラスを睨んだ。
彼女の目には、ミカエルの肩に掛ったショールをアンドラスが取ろうとしたように映ったのだろう。
アンドラスは後ろ手に縛られたミカエルの手首を掴み、最早使い慣れたその肉体でミカエルを深く嬲った。
そして、ミカエルの肉体と同じ熱さになった彼の存在をゆっくりと、ミカエルの体から引き抜いた。
「ぅ…っ」
「……これが、肉体の交わりだ。」
アンドラスはミカエルを引き起こすとその体を抱擁した。
人々のざわめきが、大波が寄せて来るように二人の周囲に戻った…。
「神父が、そのようなお姿をされるとは思いもよりませんでした。」
夜会用のつやのある黒いスーツ姿の神父に、シグルドは言った。
「私が身元を隠すには、これが一番いいのです。」
「息子の事、よろしくお願いいたします。」
「お任せください、シグルド・フォン・ヴォルフェ。」
神父との抱擁を終えて、シグルドはショールを彼に預けた婦人の方へ踵を返した。
「あなたのお気持ち、よくわかりました。」
そう言って、シグルドはショールを婦人の肩に返した。
「けれど、ご存知の通り私には妻も息子もおります。あなたにも立派なご夫君がおられます、火遊びはお止めなさい。あなたは十分幸福な方の筈です。」
その自分をまっすぐに見つめる美しい紳士の言葉に、もう若くはない貴婦人の頬に赤みが射した。
「幸福、私が…？」
「そう見うけられます、貴女はお気づきでないのかもしれないが…。」
穏やかにそう言って会釈をし、シグルドは貴婦人の元から去った。
何故か、晴れやかな思いに満たされてその姿を見送り、彼女はふとホールを見渡した。
長い事、シグルドと親密そうに話していた黒いスーツの男の姿も、すでにそこには無かった。