雪の中で泣いていたのは、私かもしれない。
子兎を、石を打って捕まえるのは、私だったのかもしれない。
ぼろ布を服にして、雪の中を心まで凍らせて歩かねばならなかったのは、
―――私の方だったのかもしれない。
そこに居るのでしょう？
兄さん。
私と同じ顔をした。
何故、何も言ってくれないのです。
何故、何も責めてくれないのです。
両親よりも近しい、私の半身。
あなたがあなたの存在を否定したら、私も消えてしまう。
言って下さい、何か。
私のことを、憎んでいると。
そうすれば、あなたを愛せる。
言って下さい。
お前さえいなければと。
そうすれば、あなたのためにこの身を投げ出すことが出来る。
あなたがいなければ、私もいなかった。
私の命は、あなたの手の中にある。
責めて下さい、私を。
そうすれば、なによりも愛していると、あなたに言える……。
士官たちの暮らすワルハラ宮の一角。
夕食を終えて、ジークフリートは一人戸外へ足を運んだ。
遠い兵舎では酒と笑いが満ちているだろうこの時間、ハーゲンは技を磨くと言って早々に出掛けて行く。
永久凍土の地で唯一信じがたい高温を発する場所、活火山の地下を彼はその習練所としていた。
どんな所でも戦えるようになるのだと、ハーゲンは昔照れながら言っていた。
微かな楽の音が、どこからか聞こえる。
夕風で雲が払われ星々は嬉々として輝いている。
風の静かに巡る針葉の木立、そこにたたずむ影を見付け彼はよびかける。
「シドか？」
「…ジークフリート。」
振り向けば、明かりがなくとも充分な極北の星の明るさだった。
「――アルベリッヒを止めてくれたのだそうだな、助かったよ。」
「いや、タイミングが良かったのだ。」
昼、アルベリッヒは下級兵士を己の技の餌食にして殺そうとした――。
「……彼の処分は？」
「ヒルダ様からとくにはおっしゃられなかったが、アルベリッヒのほうから謹慎を 申し出て来た。兵士たちのほうには暇を出すようにと言われた。命を落とさなかった
とは言えしばらくは動けまいからな、…かわいそうに。」
「アルベリッヒに言わせれば――、腐るほどいる民だそうだ。」
シドは冷たい微笑を浮かべて言った。
「半分は、お前の意見という訳か。」
「そうだ。聞けば、最初に手出しをしたのは雑兵共の方だそうではないか。以前ア ルベリッヒに殺された仲間の仇討ちだとかと――。たかが雑兵の分際で我々に手出し
をするほうが悪いのだ。」
品良く片腕に巻いていたマントの裾をはらりと落として言う。
「まったくもって、貴族様には頭が下がる。」
シドもアルベリッヒ同様アスガルド屈指の名家の長子。しかし、生れついての傲慢 さは日ごろは控え目な態度に隠されて、品の良さだけが表に出ていた。
「貴族か――。」シドは空を見上げる。
「そんなに良いものではないよ。代々続くしきたりやらなにやら、そんなものがどこまでもついて来る、何のしがらみもない君が羨ましいほどだ。」
「……確かに私は、本当の父も母も知らぬがな……。」
「戦神の申し子、か。」
父も母もないままこの宮中で成長し、年若くして勇者と呼ばれるほどになったこの男を兵士たちはそう呼ぶ、神々の意志で世に生を受け悪竜を討ち不死身となった伝説の英雄ジークフリートになぞらえて…。
「そうだな。」
あまり質の良いとは言えない笑み。戦い好きの青年戦士の笑いがジークフリートの顔に浮かぶ。
物心ついたときには、ワルハラ宮の戦士の群れの中にいたという。
おそらくは、戦士の一人が戦いの先で生き残っていた子供を拾ってでも来たのだろ う。生まれながらに巫女であったヒルダから、ジークフリートの名を与えられ養父を与えられこの宮中で育った。
「七つになるかならぬのうちから、まわりに居た戦士たちに、戦士のたしなみを… …良いことも悪いことも教えられた。」
子供一人そんな環境で育ちながら、汚れた印象のないこの男をシドは不思議に思う。
その伝説の英雄と同じ名前のせいであろうか、秀麗な貴族的な容貌のせいであろう か。
「悪いこともか…とんでもないな、君は。」
「たしなみ――。もっとも…ハーゲンには貴族の退廃を体よく言っているんだといわれたが…。」
「では、私が君をたぶらかしたように思われぬよう気を付けよう。」
「違うのか？」
言って、その手が肩ごしにシドのあごを捕らえる。
「…ジークフリート…」
背に立つ男に、シドは体を寄せた。そのあごを上げさせて、ジークフリートは襟元に顔を寄せる。
「…やめてくれ、こんな所で。…その気になる…。」
「構わぬだろう。明日からは冬やも知れん――。」
雪が落ちれば、城の外へ一歩踏み出すのも難儀になる――。
風に吹かれて星を見上げて入られるのは今だけだ。
「…物悲しい音だ。」
切れ切れにハープの音が歌っている。
「雪の中に置き去りにされて泣いている、子供の声のようだ……。」
木の幹に背をもたせ、高ぶりを押さえようと幾度も息をはきながらシドはつぶやいた。
それは、双子は家を滅ぼすと言う家の掟に従い、吹雪の中に捨てられた双子の兄 の運命にほかならない。
きこりに拾われ成長し、兄バドは今、その身の上を隠して一 介の兵士としてワルハラ宮の戦士の中にあった――。
「……焦らさないで…く…れ…ジーク…」
その腰を抱え上げられ、体を支えようとつかんだジークフリートの肩にシドは指を 立てる。
―――木の葉の風に擦れる音がする。
「ジークフリート…、…父も母も、兄弟も無く寂しくは無いか…？」
マントだけをまとって…、シドの育ちの良い体には傷一つない。
「初めから無くてはな、寂しがりようも無いだろう。」
「…ああ、そう…だな。」
それが、自分にはないこの男の強さなのだと、シドは思う。
何も無ければ失いもしない、守らねば成らぬものが無ければ、振り向かずに立ち向 かって行ける。
「…星が………。」
愛撫に吐息が漏れる。
「ん？」
「見ている…。」
黒ビロードの上に風に吹かれて冷たくきらめいている。
無数に…。
「見せておけ…。」
ジークフリートは言った。
「人の及ばぬ昔から見ているのだ、珍しくもないだろう。」
「君が、竜退治をした晩にも光っていた星かい？」
「そうだ。」
ジークフリートは笑って答えた。
天へ押し上げられるように、地にずるりと落ちるように、ジークフリートのものが 進入する。
雪の中で泣いていたのは、自分かもしれない。
ぼろ布をまとい、凍えねばならなかったのは、自分の方だったのかもしれない。
くっと喉がなった。
見ているのは、二つの瞳、シドと同じ色の…。
そこに居るのでしょう？
兄さん。
責めて下さい、私を。
そうすれば、
あなたに、許しの請えるものを……。