闇に走る黒い魂
光りに舞わんとする白い魂
混沌たる人間に生まれながら
混沌たる人間であることを否定し
御使いにも、悪魔にもなれなかった
美しき、ジェミニのサガへ
相克する魂の苦悩
苦悩する心を抱する
ただ一つの、美しき官能の器へ
―――誰に見咎められることなく、サガは聖域の丘を抜 ける。
―――獣のように闇を走り、遠い町へと飛び込む。
『いやだ…』
その瞬間、彼の白い魂が細い悲鳴を上げる。
いつも高圧的なその声が、その時だけは弱々しい打ちの めされた声を上げる。
『いやだ、頼むやめてくれ…。』
「やめぬ。お前が俺を認めぬ限りはな…。」
額にかかる銀青の髪をかきあげ、はらう。
「…幾らでもこの身、汚してやるぞ。」
その人目につく容姿を隠すために歩きなれた暗い路地。
薄汚れた迷路のようなそこを戸惑う事なく進み、彼は一 つの扉に入る。
白い魂が嫌悪に震える。
高級な人間の住む町ではない、その中心は移動こそすれ、 古代から連綿と続いて来た港町。年に僅かの陸の暮らしを 味わおうと、活気と喧噪の中を行き交う顔も言葉も違う船
乗りたち。そして、その彼らの落として行く金で生計を立 てて行く町。
誰もが激しい気性と情に脆い心を持ち、海に漕ぎ出す男 たちは皆、一夜の夢に暖かな膚を求める。
―――宿屋のおやじは、彼に高値を付けていた。
その容姿の美しさ品の良さから、身元を問いただしたく 思うのを、おやじはぐっと押さえる。そんなものを聞かぬ のが、この世界の礼儀であり、時には何も知らぬことがこ
の宿屋の主人の命を救う。
「おまえさんとこには、上客しかやらないから余り辛い 思いはしないだろう。」
荒くれた町の、裏町、血生臭い場面を幾つも見て来たで あろう、男は、それでも人の良い笑みを忘れようとはしな い。
「なに、どんなやつだっていいよ。」
銀青の髪をかきあげながら、青年は言う。
金を貰えればいい、そういう彼に、それでもおやじは客 を選んで送った。
いい年をして、何を女子供のようなことを考えているの かと思いながら、彼はこの美しい青年を垢にまみれたよう な水夫なぞには抱かせたくなかった…。
「ア…アァ……ア…。」
闇の中で、白いからだがぬめる。
自分を貫く男の腰に足を回し、せがむように締め付ける。
「もっと、動かしてよ。もっとだよ、早く…。」
言葉は分からなかったが、意味するところを理解して、 引き抜くかと思う程まで引いた腰で男はまた、青年を嬲る。
長い、甘い吐息を青年が漏らす。
「い…いよ、…とっても……アア…。」
闇の中に浮いて見える官能に溺れる青年の顔に、男はま すます自身が堅く熱くなるのを感じ、激しく腰を動かす。
「あうっ！」
ピクリと青年の体が震えシーツをつかんでいた手が、男 の腕をつかむ。
「いやっ…！」
青年は首を振った。
「いやだ！ 止めて！ やめて！！」
それまでの様とは打って変わったその抵抗する様が、男 の獣性を呼び起こす。
獣のように荒く息を吐き、抵抗する青年を犯す。
身をよじり、背をそらす。ただ乱れるだけのシーツにま たすがるように手を伸ばす。
「どうして…こんな……なぜ…？」
『抵抗するな、そいつに任せておけ…ホラ…感じるだろ う…？』
黒い魂がひどく甘い声でささやく。
「いやだ！ 止めろ！」
『フフ、お前の体はどうなっている？ 見るがいい、欲 望が塔を立てているぞ。』
「アア…ハアッ」
青年の吐息が啜り泣く。
男が耳元に何事かささやく、その体を弾き飛ばしたい衝動にかられ青年は必死にそれに耐える。
男に罪はない、誘っ たのは《自分》なのだ。
『何故耐える、厭なら殺してしまえ、指一本ではないか。 』
また、黒い魂がささやく。
『フフ、私が悪いと言いたいのだろう？ ソウ、みんな 私が悪いのだ、お前の悪の心がな。』
「何故、そうやって、私を追い詰めるのだ、イヤダ！」
『お前が、自分を認めないからだ、私を認めないからだ、 私を認めるまで、私はお前を追い詰める。…そろそろいっ てやれ、客がかわいそうだぞ…。』
低い笑い声を頭の中に響かせて、黒い魂が気配を静める。
「あ…うあぁ……あ…！」
泣き声のような叫びを上げて、青年は男の胸の下で果て た。
苦痛と涙に彩られた横顔が、聖堂の天使に似て、男は青年がそのすらりとした体型よりも子供であることに気付い た。
額に張り付いた髪を撫でてやりながら、男はふと首を捻る。
はじめから、薄暗い中で気にもとめなかったが、少年の 髪はこんな色をしていただろうか？
艶やかな銀色だったような…。
しかし今、少年の髪は天使のごとき淡い亜麻色だった。
「御苦労だったね、御祝儀をたくさんくれたよ。」
深々とフードをかぶった、青年を怪我でもしたのではな いかと不安に思いながら、おやじは稼ぎを渡す。
「ありがとう。」
丁寧な礼さえ言って、朝の町へ店を出て行く青年の憔悴 しきったような背中、それをおやじは不可解な思いのまま いつまでも見送った。
冬の雲が、雨の兆しを見せて天を覆っていた。
∵ ∵ ∵
―――ポツリ。 石灰岩の大地を洗い、また荒廃させる雨が落ちる。
―――ポツリ、ポツリ。 遠く、聖域の丘を望む。
白い神殿が序々に雨に煙って行くのを見ながら、彼はゆっ くりと歩っていく。
フードを落とした髪が、しっとりと濡れて行く。
―――ポツリ、ポツリ。 道端、オリーブの木を見付け、彼は身を寄せる。
「何故。」
雨ではないものが、頬を濡らした。
「何故、この汚れた心に加え、体まで汚さねばならない のだ？」
『けがす、か。どれほどに綺麗な体だというのだ？』
黒い魂が押さえ切れぬというように笑う。
『イヤ、美しい体だとも。ソウ、私の、お前の体は美し い。下賎の者に触れさせるのは厭か？ それならそうと言え。』
「なっ―！」
黒い魂に操られ、両手が己の前へ回る。
「やめろ！」
服の上から下肢の物を愛撫する。
『いいぞ、感じるぞ…。』
体の半分、心の半分を分けあった魂が、熱い声を身内に 響かせる。
「あ。」
否定するように首を振る。
心のすみが求める所へ、思うまま手が動いて行く。
服を割り、冷たい指が直に触れたとき、彼は高揚した心 に押さえ切れず、甘い悲鳴を上げた。
「アア。」
『イイダロウ？』
せつなく腰を悶えさせ、木の幹に背を付けたまま彼はズルズルと座り込む。
「や…め…ろ…。」
それが、口先だけの言葉であることは、言った自分が誰 よりも知っていた。
「アアッ。アア…ッ！」
下肢からの、大きな波に身を任せる。
獣に等しい行いは、自虐の心を猛々しい男の物で貫いた ――。
喉が震え、体が震える。
―――違う！
自分はこんな人間ではない。
白い泥水に髪を浸し、雨に打たれるまま体を反らし腰を 振る。
―――誰か…、誰か。 一人の同胞の影が、脳裏をよぎった。
「う…。ア！」
その、冷たい手が。
白濁した熱いたぎりを受け止めた――。
雨に、手をかざす。
なかなか流れてはくれない。
神は何故、こんな体に人間を作ったのだろう？
問いたいことはたくさんある。
何故、こんな自分が聖闘士なのだろう？
望んでなった結果が、二人の自分を生み出すとは…。
『アイオロスが答えをくれるのか？』
黒い魂の言葉にピクリと彼の体がゆれる。
―――誰か…。
すがった姿は、サジタリアスの黄金聖闘士。
「神の他に私に並び立つものが、彼以外にいるか？」
『では、有りのままを奴に話すのか。』
首を振る。
「出来ない。」
どんな人間であろうと、アテナと地上を守るために戦う と言う限り、アイオロスは同じ仲間として黄金聖闘士とし てこの自分を見ることを止めはしないだろう。
けれど…。
「それでも、こんな自分をアイオロスには知られたくな い。」
自分の否定する姿を、他人に肯定されることこそ恐ろし い――。
『そこまで私を否定するのか？』
汚れた手を、彼は見詰める。
「ああ。」
何故か、涙がまた流れた。
∵ ∵ ∵
「どこか具合でも悪いのか。」
気を引かれ、アイオロスは道端に泥にまみれてうずくま る青年に呼び掛けた。
顔を上げる、フードが落ちる。
銀青の髪の美しい顔立ちの青年、きつい眼差し。
何も言わず自分を見上げられ、アイオロスは困惑する。
「なんでもなかったか？ 済まなかった。」
照れくさげ立ち去ろうとするのを青年が呼び止める。
「アイオロス。貴様、長生きはしないぞ。」
その言葉にアイオロスは怪訝そうに眉を寄せる。
確かめるように相手の顔を見詰め、口を開く。
「サガか？」
「それは誰だ？」
口の端を歪めて銀青の髪の青年は言った。
「俺は、お前を殺す。そうすれば楽になる。」
「どういうことだ？」
アイオロスの問い掛けに顔を歪め青年は笑った。
「殺してやる。アイオロス、お前が目障りだ。」
無言のまま自分を見詰めるアイオロスの目を。憎悪の限 りを込めて睨む。
込み上げる感情に気違いじみた笑いを上げ、青年は掻き消すように消えた。
それを追い掛けようとする耳に、どこからかサガの声が ひびく。
―――アイオロス。
「サガ？」
アイオロスは辺りを見回した。
しかし、雨の上がったばかりの道には人の姿はなかった。
∵ ∵ ∵
―――数日後、新たな聖戦に備え女神が現代へ降臨した。
女神降臨にわきたつ中、ジェミニのサガは聖域から姿を 消した。
そして…。
勇者と呼ばれ、次期教皇とさえ噂されたサジタリアスの アイオロスが、反逆者の汚名を着てカプリコーンのシュラに誅殺されたのは、それから僅か数日後のことであった。
∵ ∵ ∵
自ら切り落とした幕に、もはや戻る道はなく。
己の策略で失った友に、詫びる術も遠い。
否定し合う、白い魂と黒い魂。
人間としての混沌を身内に認めぬまま、混沌を抜けてそ れぞれに至高の者となろうとした。
善なる心のみを持ち女神に仕える事を至高とする者と、 女神を討ち自ら地上を支配することを至高とする者の、純粋すぎる相克の戦い。
十三年の、孤独な戦いの始まりだった―――。