人のいない乾いた春の丘、ただ一本の高い木立の先で鳴 る春風のもの悲しい歌…。
「ソレント？」起き上がり、ジュリアンは呼んだ。
まだ薄暗い部屋、隣の寝台に友の姿はない。
ガウンがわりのコートをはおり、ジュリアンはコテージ を出る。
北の夜明の冷気が、ためらいなく体から熱を奪って行く。
コペンハーゲンからスカンジナビアに渡ったのが一月前、 季節は夏へと向かっているが北極圏に重なるこの辺りでは まだ初春の気候だった。
―――ソレント。
友が吹いているだろうフルートの音を耳に、ジュリアン は暗い針葉の木立を抜ける。
…紺色が視界を覆う、夜明けの平原と空と。
そして眼前にせまる、深い原生の針葉樹林の黒。
そこは、地球滅亡とまで言われた水害の最北端の地だった。
気温が上がり、雨が降り。森を走る名もない川が濁流 をふるって、木々をねこそぎし、寒村を襲ったという。
とうに水は引いたが、森の中に突如広がる砂地がそのふるわれた爪の大きさを忍ばせ、崩れた山小屋は素朴な人々を突如襲った惨事の無慈悲さを語っていた。
立ち止まり、ジュリアンは空を見上げる。
『神のなさることは分からない。』
災害につれあいを亡くした老爺は、そう言ってただ静か に笑った。
そのしわ深い笑みが若いジュリアンの胸に深く 突き刺さる。
キラリ―――。
黒い森の前で、射し始めた朝日に金色のもの が光る。
明るくなり始めた空に引かれるように、フルートの音が高くなる。
森に向かって、友はフルートを奏でていた。
なめらかに上下する、もの悲しい音階。
誰に聞かせるともなく、それは澄み切って、平原に渡り、 明け始めた光りに溶けて行く。
その音色は、二人でギリシャを発ってこのかた水害にあっ た人々を慰問し、元気づけてきたそれとはまるで違っていた。
「ソレント。」
ジュリアンは静かに呼び掛けた。
金色のフルートを操る指を止め、友は振り返る。
「悲しげな曲だね。」
「はい、ここに来て急に吹きたくなりました。全く知ら ない曲なのですが、まるで、指が覚えてでもいるように、 奏でるのです。」
ジュリアンは静かに頷いた。
『神のなさることは分からない。』
そう、分からないこ とばかりだ。
自分が水害にあった難民のために巨万の富をなげうったことも、慰問の旅に出ようと思ったことも…。
ただ分かるのは、自分がそれをせねばならないというこ と…。
「この森の向こうには、本当に誰も住んでいないのでしょ うか？」
「そう言われているが…、調べさせようか？」
「いえ、ただもう少し吹いていても良いでしょうか、私はこの森の向こうに行ったことがあるように思うのです。 この曲を、森の向こうへ届けたいのです。」
「いいよ、ヘリが迎えに来るのは昼だ。明日からは南半球を回るのだしね。」
「はい。」
笑いかけたジュリアンにほほ笑みを返し、ソレントは再 び森に向かった。
先程と同じ曲が、けれど遥かに軽快に流れ始める。
今度は曲に引かれるように、東の空が明けて行く。
西は青い色のまま、ほの赤く、煙るような桃色に。
―――人魚の色だ。
昔見たそれは、ただの魚だったが、その美しい鱗に幼い ジュリアンは海商王の父の話してくれた伝説の人魚を思っ た。
釣り針に絡み苦しんでいたのを、海に逃がしてやり…。
そう、魚なら水害の心配も無いだろう。
南の海を回ったら、もしかしたら会えるかもしれない。
煙る桃色が、眩いオレンジに、そして輝く金になる。
夜は西の地平に逃げ去って。
金色のフルートが高らかに歌い始める。
森が鳴り、川の流れが鈴のような音をたてた。
やがて、森の彼方から幻のように多くの人々の歌声がフ ルートの音に和した…。
「人はいるようだね。」
ジュリアンは微笑した。
友は答える代わりにより高くフルートを奏でた。
午後には南へ、旅は続く…。