１
白く、白く、視神経を焼き切るように、燃えるコスモが瞼の裏に広がって見えた。
―――その核に、幾分皮肉げな笑いを浮かべて、敵の体を抱えこんだジークフリートの姿がある。
それが、強大なエネルギーで青白く爆発する――。
「うあっ！」
両手で顔を覆いアルベリッヒは叫ぶ。
…暖かな寝台、所々血でごわついたシーツの上で、ゆっくりと瞼の裏の残像が消え、意識が戻ってくる。
アルベリッヒは体を起こすと頭を振った。
意識を拡大し、コスモを探る。
どこにも、ジークフリートのコスモは感じられない。
「敗れたか…？」
―――クククッ。
笑いが、込み上げた。
「成り上がり者の最後にしては立派だな。」
笑いが止まらず、アルベリッヒは寝台につっぷした。
シーツを汚しているのは、ジークフリートの凌辱を受けて自分が流した血。
「お前の最後を見せてくれるとは、良いつぐないだ…。」
寝台を下りる。肉がきしむ。
気を失っていた脳裏に見たジークフリートの敵の姿は、もはやアテナの聖闘士ではなかった。
海皇の配下か…。
聖闘士に敗れ、倒れたアルベリッヒをその部屋へ運んだのはジークフリート。
―――聖闘士にさえ敗れた私を、何故助けた。
わずかの間に傷さえ癒されて、生き恥をさらすのかとアルベリッヒは逆上した。
―――お前は私のものだ。だから助けた。
当然の事のようにそう言って、そして直りかけの傷口すら痛めつけられ、その腰の上であえがされた。
そして、再び戦いに出ようとしたアルベリッヒの体に、ジークフリートは重い拳を打ち込み自ら戦いに出て行った。
「本当の敵も知らずに、行くなと言ったのにな。」
聖闘士の拳を受けた胸の傷より、凌辱を受けた体より、何より行きがけに殴りつけられたみぞおちが、吐き気をもよおす程に痛い。
「ジークフリートめ。」
アルベリッヒは顔を歪める。
「オーディーン・サファイアごと吹き飛んだりはしなかったろうな…。」
窓を覗く。
ズウン――！
地響きが窓をゆらした。
最強と言われる、最後の神闘士ジークフリートもいずこへか消えたであろうに、戦いはまだ終わっていないらしい。
「だれかっ。」
ジークフリートのガウンをまとい、扉を開けて呼ぶ。
答えはない。
宮中の誰もが、今アスガルドを襲った事態に脅えてなりを潜めていることは、間違いなかった。
兵たちにいたっては、指揮官をなくして最早一歩も動くことは適わなくなっているに違いない。
ほっと、アルベリッヒは息をついた。
「ジークフリートめ…。」
体が、思うように動かない。
四人の聖闘士と戦い―――、そしてジークフリートまで…。
「随分と相手をしてやったものだ。」
アルベリッヒは皮肉な笑いを浮かべ、扉を閉めた。
招かれては、幾度も凌辱されたジークフリートのその部屋。
今、部屋の主はいない。
明かりもなく、暗く寒かった。
ガウンをまとったまま、アルベリッヒはまた寝台にもぐり込んだ。 まずは、体を回復させねばならない。
薄い紫色に輝くコスモをアルベリッヒは燃やす。
―――グラリ、建物が揺れた。
地盤がゆるみだしたか…。
ヒルダの祈りがなくなり、もう幾日も経つ。
幾代もの地上代行者の祈りによって保たれてきた氷の大地が、ついに溶け始めたのだ。
石壁がきしむ。
シャンデリアが蝋燭を振り落とすように揺れた。
森へ出よう―――。
聖闘士に敗れて死ぬならまだしも、建物の下敷きでは笑うに笑えない。
まるで大きさの合わぬジークフリートの服を、幾重にも袖をまくりあげ、ベルトをきつくしめて身に付ける。
扉を開けた、その耳に幾つもの遠い悲鳴が聞こえた。
何より宮殿を守ることを第一とされている官僚、女官、そして兵士達は建物から逃げ出すことも考えず、この恐ろしい揺れの中を身を寄せ合って叫んでいるに違いない。
「逃げろ！ 森へ走れ！ 下敷きになって死にたいか？」
下階の扉を次々に開け、アルベリッヒは叫んだ。
指示する人間の現れたことに、恐慌に硬直した顔をわずかに緩めて、人々は激しい揺れでおぼつかない足を懸命に外に向けて運んだ。
「アルベリッヒ殿、神聖なるオーディーンの森に我々などが踏み込んでも良いのでしょうか？」
老いた官僚の一人が、揺れに脅えながらも問う。
「命が惜しくないなら、ここにいるがいい。あなたの命だ。」
アルベリッヒは言い放つ。
「城下を見回れ、迷っている者は森へ誘導しろ。」
赤い髪の近衛士官の命に兵士達は、宮殿を飛び出して行く。
「どこへ行かれる？」
再び宮殿の奥へ向かおうとするアルベリッヒに先ほどの官僚が呼びかける。
「調べ物が途中の書物があるのだ。」
事態にそぐわぬ言葉に、目を丸くする。
「私はお前たちのように間抜けではない、人のことより自分の心配をしろ。」
かけ去る姿に、官僚はその青年が神に選ばれた戦士の一人であることを思う。
この地に生まれ何十年も宮殿に仕え、信じてきたオーディーンの御力はそんな力に満ちた青年の上に現された。
それを見送り、老いた官僚は外へと向かう。
そう長い命ではない、だが、神の力の具現をもう少し見ていたいと思った。
…小一時間の後、地震はおさまった…。
それは、ヒルダの祈りのコスモが再びアスガルドを覆ったからだった。
崩壊に向かった宮殿は元に戻り。
ここに神が聖地アスガルドを定めたときから、落ちることのなかった滝の水もまた美しく凍りついた。
＊ ＊ ＊
カッ───。
戦いの後の、荒れた石畳に立つ。
誰もいないオーディーンの祭壇の前。
戦士の敗れた姿も、そこには無かった。
ヒルダは馬を駆り、海辺のアテナのもとに向かった。
すでにその指にニーベルンゲン・リングは無く、邪悪は去り、元の人々への慈愛に満ちたオーディーンの地上代行者に戻っていた。 夕日の残光に赤い色を映した巨大なオーディーン像。
そこにも、無数の崩壊の跡がひびを入れていた。
片手を胸に当てて、アルベリッヒは礼をする。
それは、このオーディーン像の前に立ったときの習慣だった。
見上げる、主神オーディーンの像。
アルベリッヒの集めようとしたオーディーン・サファイアは七つともオーディーン像の北斗七星の図にはまり…。
そして、オーディーン像の前には…。
一体の神闘衣に、突き立つようにして銀の剣が青白く輝いていた。
―――ヴァルムング！
青白く輝く美しい神闘衣と美しい剣。
宵闇の近づく斎場、凄まじい破壊の跡を残した大理石の石畳に、その輝きが影を延ばしている。
「これが…。」
焦がれた剣だった。
いかなる強大な邪悪をも一刀にするという。
闇の中で光をまとう、ヴァルムング。
「あ…。」
アルベリッヒはその光を見つめた。
青白く燃え立つ光り。
光の、青白い炎。
「くっ。」
握りしめた手が、震えた。
吸いこまれるような、光だった。
吸い寄せられ、飲みこまれてしまうような…。
もはや、呻きすら上げられず、アルベリッヒは後ずさった。
「ヴァルムング！」
踏み出せぬ一歩にはがみした。
近づけなかった…。
その光の輪の届くところまでも。
陽の光を脅える、闇の妖精のように…。
美しい剣。
天ではメグレスが、素知らぬげに小さな光を放ち始めている。
―――もう私は用無しか？
「オーディーン！」
アルベリッヒは叫んだ。老いた神の像に。
神闘衣と剣が輝きを増した。
弾かれるように、アルベリッヒは祭場を飛び降りた。
体が小刻みに震えていた。
２
ザリッ。ザリリッ。ザリッ。
一度溶けかけ、また凍りつかされた雪が足の下で不愉快な音を立てる。
目の前でアテナをさらわれるとは、大間抜けな聖闘士もいたものだ―――。
心の中でつぶやいて、アルベリッヒはふんと鼻を鳴らす。
十二時間、からくもそのコスモによって地上の水没を防ぎ抜いたアテナは、しかし休む間さえ与えられず海皇に奪取された…。
一瞬、まさに一瞬だった。
地上を守り抜いた喜びと、アテナを守り抜いた喜びとで、聖闘士と誰もが手放しで喜んだその一瞬。
神の成す巨大な水の腕にアテナは連れ去られた。
今、聖闘士達はアテナの行方を探している。
昨夕からこの朝までまさに休みなく…。
森の中、一本の巨木にアルベリッヒは飛び上がる。
高い枝に座り、目の前に口を開けたうろから数冊の分厚い本を取り出す。
いずれも起源も分からぬほどに古い、手書きの書。
古代文字の整理されていないその内容はひどく読みずらい、しかし、かつて海皇が権勢を奮っていた時代に書かれた物ではやむおえまい。
ヒルダがニーベルンゲン・リングをはめられたあの日から、徐々に読み進めては来たのだが…。
神話の時代には大西洋上に在ったという海皇の地上侵攻の拠点は、かつてのアテナとの戦いにより海底に没せられた。
今、海皇の住まう海界と地上との接点はどこに在るのか…。
「これか…。」
パズルをとく糸口を見つけたように、ぽろりと言葉が口をつく。
装飾的に書かれたルーン文字の上の走り書きのような表題。
『ヨルムンガンドの腹、三又の鉾を振う者に会する者へ。』
ヨルムンガンドは海…。
三又の鉾は海皇…。
その場所は、アスガルドの民がニフルヘイムと呼ぶ氷の荒れ地の奥に在った、かつてオーディーンが霧の巨人の悪行を戒め氷の下に閉じ込めたという禁断の場所。
「さしずめ、霧の巨人と言うのは水を操る海皇の事でも言うのだろう。」
そう言って、アルベリッヒは本を閉じた。
雪が降り始めた。
昨日の水気の多い大粒の雪ではない、いつもどうりの静かに降り積もるパウダー・スノー。
何も変わらなかったか―――。
いや、これから変わるのだ。アテナをさらった海皇は地上を我が物にする積もりに違いない。
「教えに行くか―――。」
アルベリッヒはひらりと木を飛び降りた。
海皇なぞに地上を取られたくはない。
「いざとなれば、このアスガルドはヴァルムングの剣が守ってくれるだろうがな。」
そう言って、アルベリッヒは苦々しく笑った。
＊ ＊ ＊
「生きていたのですね―――。」
目の前にひざまずいたアルベリッヒの姿に、ヒルダの穏やかな瞳が輝いた。
微かな動揺が、アルベリッヒの胸を打つ。
兵を呼ばれ、糾弾されることを覚悟して来たものを…。
聖闘士達に話した、企てが偵察兵の口からヒルダに伝えられていないはずはないのに。
「……海界への入口と思える場所がこの書に記されています。」
金のしおりをはさんだ古書を差し出す。
感嘆の色を浮かべて、ヒルダはそれを受け取る。
「アルベリッヒ、オーディーンの地上代行者として心の弱すぎた私を許してください。」
「ヒルダ様？」
耳を疑い、その顔を見上げる。
「あなた達を、無益な戦いに導いてしまった。」
苦しげな声が、白い喉を振わせている。
「何故、私などに謝罪をするのです？」
「アルベリッヒ？」
「少なくとも私は、あなたのために戦ったのではない。」
感情の高ぶりに、いらだつようにアルベリッヒは立ち上がった。
「私は、このアルベリッヒはあなたの命さえ狙い、自分のために戦って、そして敗れたのだ。」
言葉を叩き付ける。
「アルベリッヒ――！」
呼び止める声を振り切って、アルベリッヒは部屋を飛び出した。 無益な戦いだ？
聖闘士に敗れ、あれほど焦がれたヴァルムングも手にできずに？ 笑いが込みあげた。
ヒルダ様、あなたのために戦ったのではない――。
唇をかみ締めて、アルベリッヒは手近のバルコニーから宮殿を飛び出した。
３
ヒルダの祈りが通じ、後数日は止まないだろう雪の中を、彼は馬を引いた。
罪を咎められないのなら、アルベリッヒ家の長子としてワルハラ宮でせねばならぬことは山ほどあったが、宮殿には居たくなかった。
ひとつ山を越えた西の領地へ行って、それから南にでも行こうか。
思考の止まった頭でぼんやり考える。
先祖の十三世のように遍歴の旅にでも出てみるか…。
夜の白い闇が迫る。
体力の戻っている今なら、一晩や二晩雪のなかで過ごすのもぞうさなかったが、宮殿の厩舎暮しをしている馬では、一晩でだめにする。
「この辺りに山小屋があったはずだな。」
馬の首を叩き、木の枝に飛び上がる。
程近くに、小屋の頭が見えた、そして……。
森の奥に、不可解な光をアルベリッヒは見つけた。
馬をつなぎ。炉に火を起こし、僅かばかりの食事を取る。
…ジークフリート達は、あなたの為に戦ったのかも知れないが。
…私は違う。
…命令を受けねば一歩も動けぬ兵のように、ただ意志もなく、命じられたままに戦う愚か者ではない。
馬が高くいなないた。
耳慣れぬ音に窓を見る。
タン、タタン、タン、タン…。
「ばかな…。」
小屋を出、天を仰いで、アルベリッヒはつぶやいた。
雨だった。
舞う粉雪を貫くようにして、この地では降ることの無い筈の雨が、氷の地の上に重く落ちる。
ヒルダが祈りを上げている今、それは海皇の仕業以外在り得ない―――。
…動きだしたか。
風が巻き起こり、幾千もの針のように雪と雨が、顔を打った。
馬が脅えていななく。
森の奥へ向けて、アルベリッヒは地を蹴った。
あの光が、気になる――。
＊ ＊ ＊
木の上、時折立ち止まり位置を確かめる。
雪と雨の嵐のなかで、それは揺れもせずに光っている。
白い光り―――。
それは、見覚えのある色をしていた。
嵐の闇のなかで冷たく白く輝くもの…。
―――！
光の間近に木から飛び降り、アルベリッヒは言葉を無くす。
がくりと氷の地の上に仰むいて倒れている。
白く、神闘衣が輝いていた。
ドウベの神闘士…。
光の中で、マスクをなくした頭が雪と雨になぶられている。
色の無い顔、輝く神闘衣の胸と腹部は無残に砕け穴があいている。
氷を黒く染めているのは、その流した血だろうか。
近づき、見下ろす。
「ジークフリート。」
呼ぶ。
雨が、その頬を存分に打っているのに、返事はない。
「ジークフリート！」
見下ろしたまま、呼ぶ。
―――死体ではないのか？
身を屈める、神闘衣の輝きが目に痛い。
その投げ出された手に触れる。
「つっ！」
微かに軋むような音がして、電撃を受けたようにアルベリッヒは何かに弾き飛ばされた。
ちかちかと、また光が瞼の裏で明滅する。
細めて目を開く、ジークフリートのまとっていた神闘衣が双頭の竜の形をとって宙に浮かんでいた。
失われていた、もう一つの頭も元のままに、胴体にオーディーン・サファイアを輝かせ――。
そして、それはいずこともなく消えた。
まとっていた主をなごり惜しむように光を強め、次の瞬間には辺りは闇になっていた。
濡れそぼり顔に掛かる髪をかきあげて、アルベリッヒは冷たい胸に耳を寄せる。
微かに脈を打つ音。
生きている。
「しぶとい男だな。」
今はただ、守られもせず雨と雪に打たれている、その男の姿を見下ろす。
ジーク・フリート、勝利と自由なる者…。
灰色の闇のなかで、髪の色がほの白い。
「起きろ、ジークフリート！」
アルベリッヒは横たわる男に言葉を叩きつけた。
「ジークフリート！」
最強を誇った戦士のしなやかな体は、壊れた人形のように無防備にくず折れている。
大理石の像のように色冷めた顔を雨が洗う。
「ジーク！」
幾千の針のように、雨と雪がアルベリッヒの顔を打つ―――。
＊ ＊ ＊
『アル…、アルベリッヒ…。』
腕の中の体を愛撫して、ジークフリートは、そう名を呼んだ。
いつからか、この男に抱かれることを許したのは、他ならぬ自分自身だった。
アスガルド随一の勇者、その圧倒的な力の差の下に引き据えられたその時から、いかなる手段ででも必ず見返してやると、その酷薄な瞳を睨み続けながらも…。
ヒルダに代わりオーディーンの地上代行者となり、神闘士を従え地上を支配してやる。
貴様を、私の前にひざまずかせてやる。
『待っているよ。』
アルベリッヒの言葉にジークフリートは笑って答える。
それはいつも、揶揄するようで、無邪気な子供じみた微笑だった。
―――血は止まっていたが、それは感心できる傷ではなかった。
胸の裂傷は、遥かに軽いがアルベリッヒの受けた傷と同じだった。
だがそれよりも、わずかに指一本のずれで心臓を外した傷、それはつき立てられた五本の指の跡だった。
自分から、差し向けられた切っ先に飛び込まなくては、こうは入らないだろう…。
小屋のありたけの薪を炉の脇に積み、アルベリッヒはジークフリートの血で張りついた衣服を引きはがす。
傷の奥には、砕かれた神闘衣の破片までも埋め込まれている。
メス代わりの短剣で傷を開く。
ピクリと意識の無いジークフリートの体が反応する。
強靱な体の、回復しようとする筋肉が破片を心臓に近づけようとしている。
止まっていた血が、あふれ始める。
拭き取るものも無く、破片を見失う、軽い一押しで心臓を打ち破ってしまうものを……。
汗が落ちる。
血まみれの手で額を拭い赤い跡をつける。
『ジーク…… ジークフリー…ト…。』
背を胸を、唇と指が滑る。
その愛撫にアルベリッヒは身悶えた。
『お前は私の物だ…、アル。』
『ちが…う…。』
悶えるその腰をジークフリートの腕が抱く。
『これが、お前への刻印だ。私のものである印だ、よく覚えておけ。』
その後ろに、押し入ってくるもの――。
アルベリッヒの喉から、呻きが漏れる。
『来…い。』
腰を抱き寄せられ、離され、また抱き寄せられる。
『いやだ！』
首を振る、下肢から自分を犯して行く淫らな泡立ちを振り切ろうと…。
『いやだ、ジーク！』
腰にきつく絡む指。
『殺してやる！』
官能に飲み込まれながら、アルベルッヒは叫ぶ。
取り出された破片も、小さく光ると煙のように消えた。
深く意気を吐く、温度の上がった小屋の中は暑く、血の匂いにむせる。
「後は自分でなんとかしろ、死んでいたらアメジストの柩に入れてやる。」
縫合するものは、何も持ち合わせていない。
あり合わせのきれで重い体に包帯し、ほうり出すようにアルベリッヒは椅子に座り込んだ。
桶に溜めた水で血まみれの手を洗い、雨嵐の荒れる外にぶちまける。
「成程、私を生かして置けばこう言う使い道もあるという訳か。昨日は一生お前の慰み者になるのかとお前を恨んだが、これで貸し借り無しだ。このアルベリッヒの命を救ってくれた事感謝するぞ。」
「そうか…。」
突然の声に、驚いて振り返る。
「明日の朝死んでいたら、アメジスト漬けにしてくれるのか…。」
眉を寄せながら、体を起こそうとする。
「馬鹿か！ そんな体で起き上がるな！」
制せられおとなしく横たわる。
「ヒルダ様は…。」
「ご無事だ、元のヒルダ様に戻られたよ。自分の為に私たちが傷つくはめになったと嘆いておられた。」
「…アル。」
「もう、その名で呼ぶな。」
「何故だ？」
「私は、お前のものではない…。」
「ああ。」
ジークフリートは笑った。
頬に微笑を浮かべて、そして、眠りこんだ。
額に触れる。
冷たい。
かたい表情のまま上着を脱ぎ、アルベリッヒはジークフリートの体に身を寄せて横たわった。
微かなうめき、あぶら汗を流して、包帯が赤く色を変えて行く。
無言のままアルベリッヒはジークフリートの胸に腕をまわした。
わずかでも、開いた傷口を抑えようと…。
―――私も奇妙な真似をする。
既に借りは返したものを…。
ジークフリートの手が、アルベリッヒの肩をつかむ。
痛みを耐えるように、力がこもる。
ジークフリートの胸元でアルベリッヒは眉をよせた。
苦しげに、ジークフリートの喉が上下している。
冷たい汗が、全身を濡らす。
―――死んでいたら、アメジスト漬けだ…。
肩に食いこむ指の痛さに耐えながら、アルベリッヒはジークフリートの胸の上で目を閉じた。
抱かれ、疲れきって知らぬ間に、幾度もこうして眠ったものだとまた皮肉に笑って。
外は、雨嵐が荒れていた。
海皇の地上侵攻の先駆けに、水が猛威を奮い始めていた。
４
夜が明けて、外はあいかわらずの嵐だった。
激しい雨に打たれ白い大地が溶ける。
海に面した南の山の斜面では、雪崩が起きるだろう…。
荷をまとめる。
馬のからだをふいてやる。
「どこへ行くのだ？」
「西の領地だ。」
アメジストの柩は必要なかった。
先程、包帯を解いてみた。
あの、大量の出血にもかかわらず、切り開いた部分はもうふさがり始めている。
本当に、伝説のジークフリートのように不死身なのかもしれない。
あのまま森に放っておいても、構わなかったのではないかと思う。
白いコスモを燃やす、その度に傷が閉じて行くのがわかるようだ。
「行って、どうするのだ？ …アル。」
「その呼び方をするなと言ったはずだ。」
ジークフリートは笑う。
「可愛い、アル。」
「貴様！」
つかみ掛かって来る腕をつかむ。
「ヴァルムングはどうした？」
「ワルハラ宮のオーディーン像の前に兵士共に守られている。」
アルベリッヒは言った。
「私が手に入れる筈だったものを、――貴様に眠らされたお蔭で、手を打つのが遅れた。」
「そうか――。」
色の薄い瞳が見透かすように見る。
「それは、残念だったな。」
「……早く宮殿に戻ったほうがいい。ヒルダ様は自分のために神闘士を無益な戦いに導いてしまったとお嘆きだからな。ヒルダ様の命を狙っていたこのアルベリッヒの元気な姿にすら、お喜びになるほどだからな。」
つかまれた腕を引こうとする。
びくともしない。
「ジークフリート。」
「それで、逃げてきたのか？」
「なに？」
寝台の上の、男の顔を見る。
「罪を許されて、いたたまれずワルハラ宮を出て来たのだろう？」
「貴様！」
つかむ手をもぎはなそうと、腕をひねる。
相手は手負いであるのに、それでもその力にかなわない。
「離せ！」
左手で傷をかばい、右手でジークフリートはアルベリッヒを抱き込む。
「―離せ！」
床を蹴り、手に触れた寝台を押す。
「触れるな！」
輝く神闘衣、輝くヴァルムング。
目の前に見て、
触れることすら出来なかった。
―――ヒルダ様、あなたのために戦ったのではない。
自分のために戦って、
そして無残に敗れたのだ―――。
涙が、出た。
嗚咽が、喉を打った。
見開いた目から、とめどなく涙が落ちる。
「畜生！」
抱えこまれた胸で、アルベリッヒはつぶやいた。
「離せ！」
傷をかばっていた手が、髪を撫でた。
「貴様に何がわかる！」
その手を払いのける。
「身分の卑しい、成り上がり者のお前などに何が分かる！」
「そうだな。」
ジークフリートは手をゆるめた。
その腕をアルベリッヒはすり抜けた。
＊ ＊ ＊
雨が打つ。
雨など降らぬはずの、極北の地ですらこれでは、南の地ではどれほどの惨事が見舞っているか…。
「貴様が憎い…。」
卓の上、昨夜ジークフリートの傷を開いた短剣をつかむ。
「刺すか？」
ジークフリートは問う。
アルベリッヒは鼻で笑う。
「こんな短剣で、お前を殺せるのならどんなに楽かな…。」
「刺されば、死なぬこともないだろう。」
「そうか。」
手にした剣の、装飾の凝った鞘を抜く。
「では、やってみよう。ことごとく私の邪魔をして、ここまで生き長らえた者はお前くらいだからな。」
満身の力を込めて、横たわるジークフリートに振りかかる。
すんででかわされ、シーツに穴があく。
シーツの下の藁を切り、台木に剣が当たり、ガツと音をたてる。
「死ね。」
体の重さをかけて、もう一度、胸に振り下ろす。
脇と腕をかすって、剣は寝台に突き立つ。
その腕をジークフリートがつかむ。
「惜しかったな。」
短剣を抜く、右手で。
無造作に、それをジークフリートは床に投げ捨てた。
滑って、剣は壁にあたる。
「なめろ、お前がつけた傷だ。」
怒りの火が、アルベリッヒの体から上がる。
その命令する口調、幾度も受けた屈辱。
だが、もとより、逃げ出す気などない。
体を重ね、アルベリッヒは舌を差し出す。
にじみ出す、最強の男の血をなめる。
伝説の川に守られた黄金は、指輪に鍛えられたとき無限の富と権力を生み出す神秘の黄金だった。
だが、それを鍛えられるのは愛を捨てることの出来た者だけ。
闇の妖精アルベリッヒは愛を捨て、指輪を鍛えた。しかしそれは神々に奪われ、巨人達に奪われた。
呪い…。愛さえ捨てたアルベリッヒは自ら鍛えた指輪に呪いをかける。
指輪を手にした者に、無限の富と権力と、そしてあらゆる不幸が見舞うようにと…。
それが、伝説のニーベルンゲンリング。
黄金の指輪はヒルダの指に輝いて、今は消えてしまった。
―――黄金の指輪も私の手には入らない。
「来い。」
その一言で、服を脱ぎ落とす。
低い寝台の傍らにひざまずく。
「もう、これきりだ。」
無理やり、奉仕させられたこともあるその、もの。
そこに、アルベリッヒは唇を添えた。
舌を伸ばし、吸う。
自分と同じもの、どうすれば良いかなど分からぬ筈がない。
「……。」
ジークフリートは眉を寄せる。
傍らから、アルベリッヒを体の上に引き上げる。
瞳を合わせる。
情欲の、かけらさえ互いの目にはない。
瞼を閉じて、アルベリッヒはジークフリートの腰の上に体を下ろす。
「うっ…」
自らの重みで体を犯して行く、つき立ったもので……。
「あ…くっ…。」
慣らされた体が、ぞくりと泡立つ。
強い、荒れ狂う雨の音、ここも危険かも知れない…。
―――ヴァルムングさえ手に入れば、この男を従えることも、容易いことであったはずなのに。
光にさえ近づけなかった―――。
恐れ…。認めたくない、恐れ。
ジークフリートの手が腰をつかむ。
「あっ！」
ゆらされる。
「ジー…クッ…。」
見る間に反応していく。
無意識に逃げかける腰をきつくつかまれる。
「やめ…ろ…。」
「何を言っている？」
笑いを含んだ声に、目を開き睨つける。
生まれも分からぬのに、その端正な容貌が冷ややかに微笑する。
ククッ。
聞き慣れた喜悦の笑い。
破壊されながらも白く輝いて、ジークフリートを守っていたドウベの神闘衣。
メグレスの神闘衣もジークフリートが自分を助け上げたときまでは、自分を守ってくれていただろうか。
聞きたい衝動を覚えながら。
くだらないことだと、それを打ち消す。
「上の空かアル…。」
ジークフリートが体を起こす。
体をつないだまま、アルベリッヒを引き倒す。
「貴様、傷は…。」
「どこかへ行ったようだ。」
「ふざけるな！」
「お前をなぶるほうが楽しいからな。」
そう言って体を離す。
「やめろ！」
閉じる足をこじ開ける。
足首をつかみ、高く足を伸ばすと、ジークフリートはその股に歯を立てる。
「つうっ…！」
「さても、白くて細いものだ…。」
「きたならしい兵士共の間で育ったお前とは違う。」
ククッ。笑いがする。
「そうだろう、アルベリッヒ。」
立てられる歯の感触が、痛みから淫らな疼きに変わって行く。
「ふっ…う。」
萎えていたものが、またぞろ主張を始める。
「良い子だ。」
ジークフリートは、アルベリッヒのものを口にする。
細い体が、手のなかで緊張した。
竜よ…。
私の竜よ…。
愛しい私の竜よ…。
ジークフリートの顔に笑みが浮かぶ。
その下肢に顔を埋めたまま、腰から胸へ愛撫の手を伸ばして行く。
「う…あっ―。」
背をそらし、身をよじる。
胸から背へ、背から双丘へ指を滑らせる。
また、耐えられぬと言うように押し殺した声が漏る。
「ア…ァァ。」
細かく舐めあげられ、たえだえの息を漏らす。
震える指が、腰を這う手にすがる。
押さえられ、悶えられぬ腰に苦しんで首を振る。
「ジーク…。」
苦しませるなと、声が言う。
答えるように、より巧みにジークフリートの舌先がくわえ込んだものの上を滑る。
「アッ！」
悲鳴を上げかけ、口を閉じる。
「声を上げろ、聞くものもない…。」
唇を離して、しかし間をおかずその手がアルベリッヒのものをつかむ。
「そら…。」
押さえたまま力を込める。
「貴…様…！」
上がる息のまま、睨つける。
体の芯は、溶けそうだ。
目を細め、ジークフリートは息をはき続ける唇に口付ける。
舌をなぶり、押し返そうとして来るのを絡め取り、きつく吸う。
眉を寄せ、アルベリッヒはジークフリートの肩をつかむ。
息ができず、舌を吸われもぎ離せず、ありたけの力で爪を立てる。
返すように、またジークフリートは片手につかんだものに力を入れる。
「んくっ…。」
背が反り、その体がジークフリートの体に触れる。
唇を離し、体を重ねる。アルベリッヒの足の間に体を割りこませて…。
頭を抱き、耳元から肩へ赤い印を付けて行く。
「やめろ！」
なんとか弾き返そうと足もとを探る、間合をみる。
が、ジークフリートに隙はない。
「あ…ん…。」
隙を捜すのに気を取られ、お留守になった唇が、胸を愛撫されあられもない声を上げる。
くっくっ――。胸元で、体を震わせてジークフリートが笑った。
隙ができる。
血の乾いた包帯の胸を押す。
「――っ！」
胸を押さえて、ジークフリートは不敵な笑みを浮かべる。
「良い子だ。」
逃げ出そうとずり上がる腕をつかむ。
「やり直しだ―。」
片手でアルベリッヒの両手をひねり上げ引き起こす。
「離せ！」
強く引かれ態勢を崩し、再びジークフリートの上に乗せられる。
空いた手が、アルベリッヒのものを扱きあげる。
「くうぅ。」
手をつかまれ、腰も引けない。
「このままで、自分で入れろ、そうしたら開放してやる。」
アルベリッヒは睨む。
手が使えぬのでは、腰を振って、そのある位置を見つけ、腰を下ろさねばならない。
「ジークフリート！」
言っても始まらぬ。
下肢のものの苦しさに息をはき、見えぬと分かっていながら首を後ろに曲げてみる。
「なんだ？」
また扱かれ、腰が震える。
「あっ―、は…あ…。」
腕をつかまれて、首をのけ反らす。
収まったものの違和感に無意識に体が締まる。
「動かせ…。」
首を振る。
「では、いかせん。」
―――こんな男に、何故追い詰められるのだろう？
アルベリッヒは腰を揺らした。
動かすごとに身を強張らせ、やがてジークフリートに導かれるままに激しく。
「はっ…うっ…。」
少し伸びた、赤い髪を振る。
細く引き締まった体を汗が伝い落ちる。
竜よ…。
官能に潤んだ緑の瞳から、涙が落ちる。
押えつけていた手を、ジークフリートはアルベリッヒの背にまわす。
戒めていた、手を離す。
「ジー…クフリー…ト。」
つかまるものを求めて、手が落ちる。
「私は…自分のために…。」
「ああ…。」
と、ジークフリートは言った。
「自分のために戦ったよ。」
ふっと、アルベリッヒの目に見たことのない笑みが浮かぶ。
竜、無限の富と権力を与える黄金の指輪を抱いて眠る竜よ。
お前を討ち、指輪を奪ったのは、伝説のジークフリート。
「貴様には、負けない…。何があっても。」
「ああ、アルベリッヒ。」
燃え上がる意識の彼方で、馬のいななきがした。
雨に打たれ、瞼をとじたジークフリートの冷ややかな顔が見えた。
オーディーン・ローブとヴァルムングの燃え立つ青白い光が、見えた。
…雨音が…、遠のく…。
５
「西の領地へ行くのではなかったのか？」
「ワルハラ宮で近衛兵の代わりはいるが、アリベリッヒ家の長子に代われる者はないからな。」
嵐は止んでいた。
海皇の気まぐれか、アテナの聖闘士が何かを成したのか…。
雨に打たれた森は雪を落とし、針葉の木々は水を滴らせていた。
ハイッ――。
栗毛の馬に鞭をくれる。
「ゆっくりおいで下さい、近衛隊長。何か混乱の起こっているようでしたら、私がまとめておきますので。」
走り去る背に、陽の光が射す。
木々の雫が幾億の宝石のように輝いた。
一陣の風に、雫が流れるように輝き落ちる。
ひとつ戦いを終えて、その地は、神々の集うグラズヘイムの野のように美しかった。
詩と戦いと死の神、我がオーディーン。
戦いの父よ。
幾つもの戦いを私の前に…。
ジークフリートの淡い金の髪を、風がなぶる。
また輝く雫が、森に降る。
氷のように冷ややかな、色の薄い瞳が眩しげに細められる。
強い風に、雲が流れる―。
ワルハラ宮へ、ジークフリートも白い大地を踏んだ。
主ヒルダのもとへ。
もう一度、穏やかな人の住まう祖国を見るために…。
戦いの日々を送るために…。