この身は、我が忠誠を誓いし
ポラリスのヒルダへ
この心は、我が気高き月の王へ
―――――――アルベリッヒよ。
目の前には、霞が掛かったように蒼い薄闇の広がる高い天井があった。
起き上がろうとし、アルベリッヒは胸の痛みに呻く。
包帯が巻かれている、傷の手当だ。
龍星座の聖闘士と戦いそして…。
アルベリッヒは途切れた記憶をたぐる。
苦い…。
苦い感情が、アルベリッヒの全身をわななかせた。
敗れたのだ、あの長い黒髪を持った龍星座の聖闘士に！
「くやしいか？」
突然のその声に、アルベリッヒは憎悪の限りをたぎらせて振り返る。
黒い口を開けた扉の前に、薄闇に溶けこむように立つ男の姿。
「ジークフリート！ ――お前が、私を助けたのか。」
「そうだ。」
「余計なまねを。」
「私の大切な、お前だからな。」
そう言って、男は嘲りを込めた笑いを闇の中に低くもらす。
「―――勝ったのだな。」
アルベリッヒは高慢に言った。
「アスガルドは、聖域に勝ったのだな？ ジークフリート。」
答えず、ジークフリートは寝台に近づく。
無表情とも思える冷笑を浮かべたその顔が、アルベリッヒを見る。
「あばらも折れて大層な怪我だったが、なかなかの回復力だ。」
―――あの戦いの日から何日経っているのだろう？
「もうしばらく眠っているがいい。―――いいな。」
「…まて！」
扉へ戻ろうとするその背を、アルベリッヒは止める。
「ここはどこだ？」
「私の部屋を見忘れたか？」
そう答えたジークフリートの顔を見つめる。
―――何かが違う。炉の火も消えたその部屋が、暖かさを保っているのは何故だ？
―――何か空気が違っている。
「何だ？ あれは…？」
夕闇の色をした窓に目をやり、アルベリッヒは声を上げる。
窓の向こうに、星のように微動だにせず無数にほの白く浮かぶもの……。
寝台を下りる。
胸の痛みを押さえながらも窓に近づくアルベリッヒをジークフリートは可笑しげに目で追う。
「これは――。」
窓の外に浮かぶものを見、アルベリッヒは振り返る。
「ジークフリート…。」
驚きと、恐怖と、感嘆と幾つもの感情がどよもして、アルベリッヒの顔に青い影を落とす。
「君は、時間を…。」
窓を押す。
カタリとも言わず、歪みもせず、石壁のように窓はあった。
その向こうに浮いているのは、落ちずにほの白く無数にあるのは、白い氷の結晶。
時を止められた世界の、雪。
「伝説の英雄ジークフリートと同じように、神々に愛され自然を友とするのは、お前ではなく私の方のようだな。」
「何故こんな真似を――。」
「何故？」
冷笑が、またジークフリートの顔をよぎる。
「お前の命を助けるためだ、アルベリッヒ。」
「馬鹿な…。言ったはずだぞ、その腰のオーディーン・サファイアを頂くために、私はお前を討つと――。自分の命をねらうものを何故助ける？」
「お前は私のものだ。だから助けた。」
その言葉にカッと、アルベリッヒの背にオーラが上がる。
「こんな事をせねばならない程傷を負わされた私を生き長らえさせ、永遠に辱め続けるつもりか！」
「そうだ。」
「――どけ！ 戦いはまだ終わっていないな！」
白くオーラを揺らがせ、アルベリッヒは立ちはだかるジークフリートに言った。
「時間を元に戻せ。今度こそ、聖闘士共を皆殺しにしてくれる。」
その肩を、ジークフリートの手がきつくつかむ。
「お前は敗れたんだ、アルベリッヒ。今と同じたいそうな口を聞いて出て行ってな――。」
「！」
「心配はいらん、今はシドが戦っているさ。お前の出る幕は終わったんだ。お前はその頭脳を大事にして休んでいるがいい。――アスガルド一の大切な頭脳だからな。」
怒りが喉を絞めた。
切れるほどに唇を噛んで、言葉にできぬ感情をすべて、その双の目に託しジークフリートに叩きつける。
「離せ。」
低く、唸るようにアルベリッヒは言った。
その瞳にからかうように視線を絡ませ、ジークフリートは肩にかけた手をゆるめる。
「覚えているがいい、貴様の行いを。」
手を振り払い、扉へ向かおうとする。
その体を、ジークフリートは腕をつかみ強く引き寄せた。
「離せ。」
幾度抱かれたか知れぬ男の体を背に感じて、アルベリッヒは眉をしかめる。
「いつまでもお前の思う通りになると思うな。」
「そうかな……？」
「数え切れぬほど、お前は私を辱めた。傲慢に神を気取って、時を遅らせてまで私の命を救ったことをお前は必ず後悔するぞ。」
「そうかい？ かわいい、アル。」
怒りに身をこわ張らせる。
胸に厚く包帯を巻かれただけの、下肢もあらわな姿がオーラを放つ。
それを楽しむように、ジークフリートは腕の中の体に指を遊ばせる。
「あっ―。」
教えこまれ、目覚めさせられた皮膚をなぞられ、あられもない声が上がる。
低く、ジークフリートは笑う。
「知っているか？ この体はお前が自分の名を忘れてもこの感触を忘れはしないぞ。」
その手を振りほどこうと、アルベリッヒは身をひねる。
一体、どれほどの誇りをこの男に汚されただろう。
今は、戦いにさえ敗れ……。
「離せ！ 離せ！！」
「暴れるな。」
「はなせ！」
その力を手に余し、ジークフリートはアルベリッヒを突き放し頬を打つ。
「殺してやる！」
ふらつく体を窓にもたせて、その体をためらいも打算もない殺意が青く覆った。
「そんな傷を負って、技が使えるのか？」
「貴様など、大地の精霊の餌食になるがいい。」
すらりと右手をあげてアルベリッヒは叫ぶ。
「ネイチャー・ユーニティー！」
―――遠く、地鳴りがした。
床石が膨らむように持ち上がり、その隙間から太い木の蔓が幾本もうねり伸びた。
「精霊よ！ アスガルド一の勇者を捧げる！」
黒い蛇のように、蔓はジークフリートの体に絡みついた。
手に足に首に……。
しかし、ジークフリートは顔色の一つさえ変えなかった。
「アル。」
哀れむような、アルベリッヒにとっては侮辱でしかない微笑を見せて、ジークフリートはオーラを燃やす。
蔓は焼かれ蒸発するように、消え落ちた。
「ネイチャー・ユーニティー！！」
もう一度叫ぶ。
しかし今度は、ジークフリートの体に触れもせぬ内に蔓は消え落ちた。
「ここで私に逆らえる物はない、ここは私の作り出した空間だからな。」
「それなら、お前を倒せば間違い無く元の空間に戻れるという訳だ。」
暗い笑いを見せて、薄闇のなかでアルベリッヒは両腕にオーラを燃やす。
―――アメジスト・シールド！！―――
妖しい藤色の光をまとい、数百の紫水晶がジークフリートめがけて宙を飛ぶ。
生物の体を覆いその精気を吸い殺すと言うそれは、しかしジークフリートの前で壁に打ちつけられたかのように床に弾け落ちた。
「私に従うがいい、アルベリッヒ…。」
足もとに散った、きらめく紫水晶を踏みつけて、甘くジークフリートは言った。
組み敷かれ、貫かれ、また戒めをかけられて、幾度ささやかれた言葉であるか――。
「誰が貴様などに。」
それもまた、幾度投げつけた言葉であるか。
闇の中でジークフリートは笑う。
沈んだ柔らかい青紫の瞳が、ほの暗く光る。
「ネイチャー・ユーニティーと言ったな？」
アルベリッヒに向けてその左の拳を開く。
その手の上でピクリと動いたのは一本の黒い蔓。
床から伸びるそれを撫でるような素振りをし、ジークフリートは言った。
「行け…。」
「あっ―――！」
飛び退こうとした先を読んで、蔓がアルベリッヒの右足に絡みつく。
床に倒れ、蔓を振りほどこうとする、その手をジークフリートが捕らえる。
「さあ、可愛がってやれ。」
蔓の先が、細く伸びる。
「ああっ。」
教え込まれた愛撫そのままに、蔓はあらわなアルベリッヒの下肢に絡みつく。
「どうだ、アル。お前の可愛いしもべに可愛がられるのは？」
「下衆め！」
抵抗を続ける腕を両膝で押えつけ、ジークフリートはその緑の炎の燃える瞳を見つめる。
「勝つためには、手段を選ばぬのだろう？ お前の持論だ。」
そう言って見つめる瞳が、ゆっくりと微笑を浮かべる。
―――？
「ジーク？」
邪気の無い、それはひどく優しい笑いだった。
瞳を合わせたまま、唇が重ねられる。
何か、気の遠くなるような思いにアルベリッヒは首を振った。
「死ぬことは許さない、アルベリッヒ。」
その言葉に、衝かれるようにアルベリッヒは目を開いた。
「聖闘士も討てず負けて生き長らえ、笑い者になれと言うのか。」
「そうだ。」
「貴様！」
「あくまで非情に徹せよ、とも言っていたな。」
見つめる瞳は笑う。
「可愛いアル。」
髪をまさぐっていた指が、胸の包帯を開く。
拳圧に裂かれあばらを折られ、内臓に達していた傷。
しかし今は、乾き切らぬだけの大きな裂傷があるまでに治癒していた。
「覚え込ませておいてやろう、私が救った傷の痛みをな……。」
そのまだ血の色をした傷口に、ジークフリートは掻くように五指を立てた。
「つうぅっ！」
「そしてもう一度、私の味をな。」
内臓に直に触れられるような痛みにアルベリッヒの体が震える。
それを、ジークフリートはうつぶせた。
「おとなしくしていれば、すぐに済む。」
「貴様！」
「四つ這いだ。膝をつけ……。」
「くううっ……。」
傷に添えられた手に力が入れられる。
痛みに体がこわ張る。
「うっ…う…っ。」
「アル…、四つ這いだ。」
痛みから逃れるために、わずかに残った意識がジークフリートに従った。
薄ら笑いをもらし、震える体にジークフリートは手を滑らせる。
足を捕らえていた蔓が、溶けるように消えて行く。
「アアア、アア……ァァ…」
背を胸を、唇が指が駆り立てるように愛撫していく。
「ジーク…… ジークフリー…ト…」
「お前は私のものだ…アルベリッヒ……未来永劫に…な。」
「ちがう…、貴…様など…」
もだえる体の、骨格の細い腰をジークフリートは抱く。
「覚えておけ…この刻印を…。」
「―――いやだ！ 違う！」
「……私の物である印だ、よく覚えておけ。」
深く侵入していく、細く誘い込むそこへ。
「くううう… くううっ！」
「来…い。」
きつく、きつくその腰を抱き寄せ、離し、また抱き寄せる。
「アア、ジーク… イヤだ…… アアア―――」
貫かれ悶える胸にジークフリートの手が這う。
傷口を探り当て、爪を立てる。
「アッ、ヒイッ！！！」
滲み出す血が、ジークフリートの指を染めて行く。
「お前は私の奴隷……アルベリッヒ。」
血の伝った指を、アルベリッヒの前に絡ませる。
赤いものを塗りつけるようにその先端をなぞる。
「あっ、はあぁぁ――…」
ごおぅっ―。
激しく炎の上がる音がした。
体も、焼けるように、熱い。
ごごおおぅ――。
…いや、炎ではない、あれは木々の唸り。
雪になぶられる木々の唸り。
死んだか？
皆、誇り高き神闘士として……。
愚かな。皆何も知らぬのだ、己が真に誰の手先と成り果てているか……。
ジークフリート、お前も………。
「ああ、ジーク……愛…し…ている……。」
その体の上に乗せられ、体を揺らしながらアルベリッヒの唇が言葉を落とす。
一瞬動きを止めて、ジークフリートは熱を帯びた緑の瞳を見上げた。
竜の神衣を纏う最強の神闘士には似合わぬ、哀しげとも嬉しげともつかぬ不可解な表情を浮かべ、彼は貫いたままのアルベリッヒの背を抱き寄せる。
「愛しているよ、可愛いアル。」
その唇をアルベリッヒはむさぼる。
「アル……」
「お前…も行くのか…？ ジーク……。」
「――シドが聖闘士を討ってこれねばな。」
「ヒルダ…様…のために…か？」
―――背に回された指が、腰へと滑る。
「はぁ…アア……――！」
「……シドも…敗れたようだな。」
「な…に！ あっ…あ……っ…」
熱いその手につかまれた腰が、揺らされる。
目の端に捕らえた窓で、雪はもはや止まってはいなかった。
「不甲斐ない連中ばかりだな……、アル。」
「思い上がるなっ、アァー……」
「お前がそれを言うのか。ヒルダ様さえ亡き者にし王になると言ったお前が。」
低いジークフリートの笑い。
「…青銅聖闘士ごときに敗れた、お前が……」
「…だま…れ！ ―――黙れ！」
その下肢を支配され、つかみ掛かる手に力の入るはずもなく。
翻弄されるままに、官能の息を吐く。
「…勝つがいい、ジークフリート……。」
―――そして、真の勝者が誰か……思い知るがいい。
ヒルダでもなく、ましてやアスガルドの神でもない。
海から来た、あの……。
部屋に積もる冷たい闇の色は、深海のそれに似てはいないか？
ひたひたと近づくその気配を、大地の精霊達が震えるように伝えていた。
「お前は、何か知っているのかもしれんな。……争いを好まれなかったヒルダ様がお変わりになった理由を。」
胸も下肢も血に染めて、寝台にくずおれたアルベリッヒは何も言わぬ。
「だが私は、ヒルダ様に忠誠を誓った神闘士だ。いかにあの方が変わられようと、あの方を御守りし付き従うことが私の生き方だ。」
「……もしヒルダが、本当のヒルダでないとしてもか…？」
「…それならば…、私は本当のヒルダ様をお助けするまで――。」
雪、吹雪いている。
――― 一日の終わりが近い。
「ジークフリート…。」
扉へ向かう姿に呼びかける。
「私も行く、ジークフリート。」
……お前の戦う相手は、聖闘士だけではない。
海の流れは、このアスガルドを陽のそそぐ地へ運ぶつもりなど無いのだ。
地上の守り主達を、相戦わせ一掃する事が、あの海の守り主の企みなのだ。
「休んでいろ。」
「――いやだ、私が王になる地上だ。」
「戦えなくなるには、まだ足りなかったか……。」
「ジークフリート！」
つかつかと近づく、それを逃れるには体が余りにも緩慢にしか動かなかった。
起き上がったアルベリッヒの肩をつかみ、そのみぞおちにジークフリートは深く拳を埋めた。
「ジー…ク……だ…め……」
暗く落ちて行く視界の向こう、雪が舞っている。
青い闇のその奥まで、無限に、舞い落ち続ける雪。
雪、雪、雪。
私は王になる
自然を操り、地上の王になる
私に触れていいのは神だけだ
私の望みは、永遠にお前をこの腕のなかで苦しめること
私の腕のなかで王になれ
王になったお前も私が抱く
雪、雪、雪。
時の流れに運ばれて行くように、足音がきえて行く。
遠く…。
ジークフリート、何故私を抱く？
お前にひかれたからだ
誰が信じる？
信じなくとも構わぬさ
―――ああ、ジーク……愛…し…ている……。
―――愛しているよ、可愛いアル。
長い長い一日は、もうすぐ終わるのだろうか？