東の方(かた）
ヴァラローマが鳴り響く
暗闇屠る狩人の
大角笛が
深紅の祝福を呼び覚ます
赤々と炎を上げるヴァーサ
彷徨いしラーナ
打ち倒されし
ラウレリンとテルペリオンの幻
双つが共にありし時
深紅の床（とこ）で汝（な）は生まれし
ヒサイグリアを東に見て、銀青の光を纏う二つの影が古い街道を南へと駆け抜けて行く。
イルヴァタールより生まれながらに美を賜った星の民の、青年二人。
彼らはこのアルダの人の子の数え方なら、あと百年と少しで三千歳になろうと言う年齢だったが、歳を経るほどに叡智と哀しみでその美しさを際立たせると言う星の民に在っては、彼ら程の年齢では未だ青年であった。
彼らにとって叡智は武器であり哀しみは怒りの源として、そのすべては、かつて麗しきアマンの地を捨て中つ国に戻った若きノルドール達と変わらず、モルゴスの諸輩に向けられていた。
彼らは自らの生を受けた掛け替えのないこの中つ国を愛し、そこで生まれ育つ生きとし生けるもの全てを愛した。
そして、彼らが愛するものを捩じ曲げ、傷つけ損なう者を何より憎んだ。
別けても彼らの美しき母、ケレブリアンに毒の傷を負わせ、アマンに去らしめたオークには深く拭われぬ憎しみを持ち、一度その消息を聞けば、彼らはこれを逃す事はなかった。
二人の青年はオークと戦うものをも助け、アルノールの残り火たる誇り高きドゥネダインは、遠い父祖の代から彼らを『アラウの従者』『オークの追跡者』と親しみを込めて呼んだ。
二人の青年の名はエルラダンとエルロヒアと言った。
二人の父は、イムラドリスの主エルロンドであり、その祖父は天船ヴィンギロトを繰り大空を渡る航海者エアレンディルであった。
「馬を休ませよう。」
エルラダンの言葉にエルロヒアは少し不満気な顔をしたが、すぐに兄の言葉に従った。
夕刻にイムラドリスを発ち、彼らの駿馬は既に百五十マイルを駆け抜けていた。これ以上、荒れた夜道を走らせるのは、メアラスではない並みの馬には可哀想な事だった。
二人は小川を見つけると、南西にエレギオンを望む丘で馬を下りた。
「遠くに行ってはいけないよ、この辺りにはワーグがいるからね…。」
二人はそう言って馬を放した。
旅装の丈の短い群青の上着に銀色のマント。
金の飾りのついたベルトに、細身の長剣。
晴れやかな面差しと、イムラドリスの主と同じ、星の輝く深い夕暮れ色の瞳。
漆黒ではない、澄んだ灰とも青も見える夜空と同じ、どこかに光を秘めた長い黒髪が、風に吹かれて無造作に靡く。
二人は、まだ青草が覆っている丘に並んで横たわった。
晩秋の空は澄み切って明るく、いと高きエルベレスが鏤め賜うた星星が、伸ばせば手が届きそうな程に近く輝いている。
「ああ、何てことだろう…。」
先に口を開いたのはエルロヒアの方だった。
「ヴァラキアカが真西にある。この時間ではもうレゴラスは…。」
エルラダンはそう言うと、切なげにほうっと溜息を吐いた
「やはり一緒に連れてきてしまうべきだったよ。」
「…無理だったよ。」
エルラダンは言った。
「グロールフィンデルが私達の事をずっと見ていたからね。父上と共犯だから、絶対見逃してはくれないよ。レゴラスが私達に賛同して、ワインの空樽にでも隠れてくれなくては、とても谷から出せやしなかったよ。」
「許せないな、せっかく私達が若者同士で親睦を深めていたのに、父上達が熟練の技で彼を篭絡するなんて。」
「ああ、エルロヒア。私達は一刻も早くロリエンに行って役目を果たし、イムラドリスに戻るのだ。」
エルラダンの言葉にエルロヒアは頷いた。
エルロンドの御前会議の決定。
“一つ”の力の指輪をオロドルインに捨てに行く事。
そのサウロンの指輪が見つかった今は、その指輪をそれが生まれた溶鉱炉に投げ込む事以外には、最善の策はなかった。
その決定を…、そしてオロドルインへ向かう旅の仲間達が、いかなる者達かを、彼らは彼らの祖父母でもあるロリエンの領主、ケレボルンと奥方ガラドリエルとに伝える役目を受けたのだった。
「一つの指輪を無に帰したら、私達の“三つ”指輪はどうなってしまうのだろう。」
エルロヒアは言った。
「父上は、全てを統べる一つの指輪が消滅した時、残る指輪の力も全て失われると考えておられる。」
エルラダンは答えた。
父エルロンドの指に輝く青のヴィルヤ、光の姫ガラドリエルの持つ白く輝くネンヤ、そしてもう一つ、持ち主の秘められた赤のナルヤ。
それは持ち主達の意思により、人知れずこの中つ国を護って来た、三つの力の指輪だった。
その指輪が力を無くした時、指輪所持者もその役目を終え、この中つ国を去るだろう。
ミスロンドから船に乗り、アマンへ…。
「彼らの旅が成功したら…行ってしまうんだな。」
エルロヒアは身体を起こして言った。
ミスロンドを発つエルダールの船はベレガイアを越えて空に行く、そして船は再び戻ってはこない…。
「…変わってしまうんだな。」
一つの指輪は滅ぼさねばならない。
二人に力の指輪への欲望は無かった、二人にとって、分かち合えぬ物は意味がなかった。
けれど、自分達が生まれ、愛して来たこの中つ国が指輪の力を無くして、どのように変わって行くのか…。
「父上は私達の倍以上もの長い間、変わり続けるこの世界を見たんだ。私達はまだ何も知らない青二才だ。」
エルラダンは言った。
エルロヒアは星明りの下、遠くに望むエレギオンに目を馳せた。
今は石ばかりが残るエレギオン。
そこにかつて、三つと七つと、九つの力の指輪が作られたノルドールの王国が栄えていた等とは、エレギオンの残党が多くを占めるイムラドリスで、その栄華を聞いて育った二人にさえ信じられなかった。
石も樹も、彼らの込める思いより遥かに早く姿形を変えていく。
エルロヒアはエルラダンを振り返った。
エルラダンは草に横たわったまま、物思うように瞼を閉じていた。
エルラダンもまた、エルロヒアと同じように去り行く船と、エルダールが護って来た中つ国の美しいものが見る間に色褪せて行く世界を瞼の裏に見ていた。
「エルラダン…。」
エルロヒアは囁くように呼びかけた。
そして、長い髪を夜風に吹かせながら、エルロヒアは自分とそっくりのその唇に唇を重ねた。
星からは見えぬ場所で暖かい舌先が触れ合い、二人は長い間静かに唇を重ね続けた。
やがて、エルラダンはエルロヒアの体を抱き寄せた。
エルロヒアはエルラダンの肩口に顔を寄せた。
「私達は変わらない。」
「……変わらない。」
エルロヒアも答えた。
二人は上着を脱ぎ、互いの体に水が流れるかのように腕を這わせた。
数知れぬ程のオークを倒して、なお二人の体には一つの傷跡さえなかった。
分かち合えぬものは要らない…。
分かち合えるものは、哀しみも苦しみも分かち合おう…。
母の胎に、生を受けた時から、二人は共に在った。
常に分かたれる事無く、死ぬ時があるなら、きっとそれさえ二人同時に訪れるだろう。
イルヴァタールが、エルロンドとエルロスの兄弟のように二人に別々の使命を与えられないかぎり…。
「ああ…きっと今ごろ、父上はレゴラスを存分に楽しんでいるよ。」
「今日はもう諦めるんだ、ここからではどうしようもない。」
エルラダンは言った。
「けれど、イムラドリスを空ける事の出来ない父上とは違って私達は自由だ。私達にはレゴラスが旅に出てからの方が有利かもしれない。」
エルラダンの言葉にエルロヒアは頷いた。
何より二人で分かち合いたいものは、
よろこびと楽しみ。
-ＥＮＤ-
葉月まゆみ